イエス・キリスト(Jesus Christ)

1.イエス・キリストの生涯

 イエス・キリストは今から約二千年前にユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。両親はヨセフとマリヤです。しかし、二人が結婚する前に、聖霊によって処女マリヤから生まれました。それはイエス・キリストがアダムに始まる罪の性質を受け継がないためでした。真の父は神様です。

 イエス・キリストが三十歳になってバプテスマのヨハネからバプテスマをお受けになったとき、天からこう告げる声が聞こえました。

 『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』(マタイ3・17)

神様はイエス・キリストを「わたしの愛する子」とお呼びになり、喜ばれました。


 親不孝な子は親の悲しみでしょう。ところが神様はイエス・キリストについて「わたしはこれを喜ぶ」と言われました。すなわち、三十歳までのイエス・キリストの歩みは神様がお喜びになるほどの完璧なものでした。

 イエス・キリストは三十歳になるまで父ヨセフの仕事を継いで大工として働かれました。母マリヤからは弟や妹が生まれました。この間、イエス・キリストは父や母に仕え、弟妹のよき兄として、完全な歩みをされたのです。

 三十歳を過ぎた後、イエス・キリストは三年半の間人々に福音を宣べ伝え、ご自身が救い主であることを証しされました。その間にイエス・キリストと寝食を共にした弟子の一人であるペテロはこう証言しています。

 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」(第1ペテロ2・22)

 たとえ師と弟子の関係とはいえ、三年半も一緒に過ごしていれば何かしらの欠点が見られるものです。しかし、イエス・キリストにはそのようなことは一つもありませんでした。これもイエス・キリストには罪がなかったことの証拠です。


 イエス・キリストは罪を犯さなかったばかりではありません。悩む者、苦しむ者の友となり、深い愛を示された方です。

 イエス・キリストは悪霊につかれたゲラサ人の男を救い出すために、わざわざガリラヤ湖を渡られました。心にいやしがたい悩みを抱えて人の愛に解決を求めていた女性に道を示すために、わざわざスカルという町に立ち寄られました。一日中歩き回って疲れ切っているにもかかわらず、家に押し寄せてくる人々の病気を一人一人いやされました。イエス・キリストに救いを求めて拒まれた者はただの一人もいません(それは十字架の上で苦しまれた時も例外ではありません)。

 『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』(マルコ2・17)


2.イエス・キリストの十字架

 十字架は大変ポピュラーなもので、アクセサリーにもよく用いられます。十字架のついたネックレスなどを身につけた女性(最近は男性も?)を時々見かけます。しかし、十字架はそのように軽々しく扱われるべきではなく、人間にとって重大な意味のあるものです。


 十字架はローマ帝国で行われていた最もむごたらしい死刑の方法の一つであり、そこにかけられる者は極悪の大犯罪人に限られていました。しかし、イエス・キリストは全く罪のないお方でした。ユダヤの指導者たちのねたみによって無実の罪を着せられたのですが、イエス・キリストは逃れようとはしませんでした。

 イエス・キリストはご自分がこの世に来られた目的についてこう語られました。

  「……わたしが来たのは、羊(=人間)がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10・10〜11)

 イエス・キリストは全ての人間の罪を身代わりに負って、ご自分のいのちを捨てるためにこの世に来られたのです。


 神の御子であられるイエス・キリストが十字架にかかって死なれたということは、私たちにいろいろなことを教えます。

 まず第一に、神様は私たち人間をこよなく愛しておられるということです。私たちは神様によって目的をもって造られた者なのに、その目的を拒んで自分勝手に歩み、神を神と認めない人生を送っていました。そのような私たちは裁かれて当然なのに、神様は私たちを滅びから救おうとされて、私たちの罪の裁きをイエス・キリストに身代わりに負わせました。それがイエス・キリストの十字架です。

  「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3・16)


 第二に、神様は真実に聖であられるということです。神様はご自身の前に完全に歩まれたイエス・キリストを私たちの身代わりとして裁かれました。それほどに私たちの罪は赦しがたいものであり、神様はその罪の責めを私たち自身に問わないでイエス・キリストに負わせることによって、ご自身が恵み深い方であると同時に、断じて罪を処罰される聖なるお方であることを示されました。

 イエス・キリストは十字架上で死なれるとき、こう言われました。

  「完了した。」(ヨハネ19・30)

 これは神様の罪への責めが満たされ、私たちの救いが完成したことを告げる声でした。

 イエス・キリストの十字架こそ、神様の愛と聖とが交わる不思議な、素晴らしいものです。


3.イエス・キリストの復活

 イエス・キリストについての話で最も抵抗があるのがこの復活でしょう。しかし、イエス・キリストの復活は事実です。これにはいくつかの客観的証拠があります。

 第一に、イエス・キリストの死体がなくなりました。その墓の入り口は大きな石でふさがれていたので、誰かが盗むことはできません。

 第二に、イエス・キリストは復活した姿を多くの信者たちに現しました。一度に五百人以上の弟子たちの前に現れたこともありました。五百人が同時に幻覚を見るとは考えられません。

 第三は、その後の弟子たちの劇的な変化です。イエス・キリストを見捨てたペテロが、クリスチャンを迫害したパウロが、後にはイエス・キリストの復活を語り、死の危険にさらされても言葉を曲げませんでした。人は嘘やでたらめのために命をかけるでしょうか。

 以上の事実を最も合理的に説明する方法はただ一つ、イエス・キリストは聖書が語る通りに復活された、ということです。

 「……神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。」(使徒3・15)


 イエス・キリストが復活されたということは、信じる者にとって重要な意味があります。

 「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。」(第1コリント15・14)

 復活はイエス・キリストについて三つのことを証明します。

 第一に、イエス・キリストの生涯は勝利であったことです。イエス・キリストは死で終わったのではなく死をうち破ったお方です。

 第二に、イエス・キリストが永遠に生きておられることです。イエス・キリストは世界の創造される前から存在しておられ、今も生きて私たちのために働いておられるお方です。

 第三に、イエス・キリストのみことばが確実なものであることです。イエス・キリストは何度もご自分が死んで後三日目に復活することを弟子たちに告げておられ、その通りに復活されました。最も不可能なことがみことば通りに実現したのですから、復活はイエス・キリストの他のみことばも、ひいては聖書全体が信頼すべき神のことばであることを証明します。


 「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13・8)

 このことから聖書を、特に福音書を読む意味を教えられます。福音書はイエス・キリストの伝記と言われますが、決してそれだけではありません。伝記は死んだ人の生前の業績を語ります。しかし、イエス・キリストは復活されて、今も全く変わらない方として天におられます。今生きている方を知るために、私たちは聖書を読むのです。


HOME