新任教師のための学校の将来と教師の役割
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キリスト教学校教育同盟西南地区夏期学校・新任教師オリエンテーション
南阿蘇グリーンピアホテル 1998.8.3-5
III.知る力と見抜く力(深い知識と鋭い感性)
教育における「第一級」ということは、究極的には次の二つの事柄だろうと思います。
- 学術的にもしくは知識において第一級であること
- 鋭い感性の育成において第一級であること
その他のことは、たとえば、近年学校運営の重要な点として掲げられているような施設や設備、教育環境を整えることなどは、教育の内実ということから言えば、いわば、どうでも良いことの部類に属すると思っています。
教育は何よりも人間の業ですし、人間の業であるということは人間対人間で行われることであり、設備や環境が整えられるに越したことはありませんが、たとえそれが不十分であったとしても、そこに「生きた人間の声」があり、「生き生きした学びの関係」が築かれるならば、教育は十分に成り立つからです。
そして、人間対人間の業としての教育は、何よりも知識や技術の生きた伝達をもってその業とするものです。教える方も学ぶ方も知識を媒介にして教育の場につきます。そして、この知識は、特に近年、日進月歩がすさまじく進んでいます。
教育の土壌としての知識が、もはや何の意味もない古くさいものであったり、誰かの借り物の知識であったり、真理が持つ驚きや感動を含まないものであれば、それは腐った果実と同じもので、ただ異臭を放つだけです。
学術的にあるいは知識において第一級であることの課題は、常に、教える側である教師の責務です。教育は、何よりも「教えること」に基づく文化的行為であり、その具体的内容としての知識は、可能な限り幅広く、また深いものでなければならないのです。
教師は、そのために、自らが絶えざる研鑽を積む必要があります。自ら学ぶことのない者は、教えることもできないのです。
また、教師は、学ぶ側である学生や生徒が常に新しいということも自覚しなければならないでしょう。たとえ変わらない普遍的な真理を講じるにしても、それを受け取る側はいつも新しいのですから、教師自らの新しい受け取り直しが必要なのです。
学生や生徒は、毎年、刻々と変わっていきます。彼らの知識も感性も、10年前の学生や生徒と同じものではありません。それは、教え方、つまり教授方法も変わらなければならないということです。研鑽はその意味でも必要なのです。
第二に感性の育成において第一級であることですが、これは大変難しいことだと思います。なぜなら、感性というものは、短い教育期間では、そう簡単に養われるものではなく、また、天性のものも作用するからです。
感性は、おそらく、長い蓄積によって育まれるものでしょう。しかし、教育の神髄、あるいは喜びはここにあるのではないでしょうか。知識は、やがて廃れるでしょうが、その知識を育んだ感性は残ると僕は思います。
たとえば、美しいものを美しいと感じる心、問題を問題と感じる感性、善を善とし、真理を見いだそうとする感性、そういう感性が育まれれば、教育はその目的のほとんどを達成するのではないでしょうか。
ただ、こういう感性は、教授法や教える技術では伝わらないでしょうね。感性を伝えるのは、おそらく「感動」でしょう。そして、「感動」は「感動」によってだけしか伝わらないのですから、まず、教師の側の「感動」が必要となるのです。
感動する心、それが教育には不可欠ではないかと思うのです。
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