Via Dolorosaへの旅
自由であること
 

 芥川龍之介の暑中見舞の言葉に「兎も片耳たれる暑さかな」というのがありますが、今年の夏は、本当に暑かったような気がします。心も体も、どろどろと溶かすようにして毎日を過ごしてしまいました。

 9月になり、そろそろ、そのツケが廻ってきそうです。いろいろなものに縛られていることが多くなり、また「忙しい」と言ってしまう時が始まりました。

 しかし、この忙しい9月だからこそ、「自由」について考えたいのです。「自由」は、人間が豊かに生きるための最も基本的な条件の一つであり、「自由」は、人を主体的で生き生きとさせます。

 しかし、人間は誰でもそれぞれの限界をもって生きている生物に過ぎませんから、人が生きている限り、さまざまな束縛から逃れることはできません。この束縛は、時として、苛酷なほどの不自由さを感じさせてしまいますが、「あらゆる束縛から解放された自由」というものを、人は本質的に経験することができないのです。

 ですから、本当の意味で「自由であること」というのは、束縛している限界の克服と同時に、主体的な意志の問題でもあるのです。つまり、さまざまな束縛の中で、何を主体的に選びとっていけるかが問われるのです。そこに、人間の自由と豊かさの鍵があるといえるのです。

 私たちは、「自由でありたい」と願います。聖書も自由について語りますし、何よりもイエスは自由な人間でした。しかし、「自由」と「自分勝手」を混同しないためによく考える必要があります。M.ルターは、『キリスト者の自由』の中で、次のように語っています。

「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰 にも服しない。
キリスト者は、すべてのものに仕える僕であって、誰にでも服 する。」
この二つの命題が成り立つところに「真の自由」が成り立つ、と言うのです。良く考えてみたいものです。