死の受容(3)熊本県立大学公開講座 1995.8.29
2−1.英雄的死よくご存じのことですが、江戸時代に、儒教の一派である朱子学の大きな影響の下で形成されてきました武士道の倫理体系は、武士が死に直面したときには、もっぱらこれを甘受する姿勢が推奨されてきました。 歴史上記録に残された最初の切腹者は、1333年(室町時代)に、建武の中興の時の「吉野の戦い」で北条仲時に敗れ、敵の目の前で切腹して果てた村上義光ですが、やがて、死をもって自分の生と志を貫徹させるための様々な死の形式が作り出されていきました。切腹に仕方がいろいろと考案されたのです。 佐賀藩の山本常朝の口述を筆記した有名な『葉隠れ』は、いざという時は分別を捨てて、死を恐れず、君主のために「死に狂い」となるべきことを説き、そのようにして死すべき運命を甘受することこと武士(人)の理想であると教えました (1)。それはまさに「英雄的死」の鼓舞に他なりませんでした。 古代ギリシャにおいても、こうした英雄的死の受容は、人間の理想的な死の姿として受け取られ、燃えさかる炎の中に毅然として飛び込んで死への旅立ちをした英雄ヘラクレスの姿が理想とされました。 たとえば、「健全な精神が健全な肉体に宿りますように」という言葉でよく知られているユヴァナリウス(50−130年)の祈祷文では、「死の恐怖にも平然とした強い精神(fortis animus)を求めるようになりますように。より詳しくいえば、人生の最後を自然の賜物(munus naturae)として受けとめる精神、どんな苦しみにも耐えることができ、愚痴をこぼさず、虚心になった精神、ヘラクレスの艱難辛苦をより望ましいものと思う精神を求めるようになりますように」と述べられています(2)。 このような、死を恐れないことを美徳とする英雄的な死の受容は、日本では「散りぎわの美しさ」として称賛され、佐久間象山は辞世の句として「時にあわば、散るもめでたし山桜、めずるは花のさかりのみかは」と詠んでいます(3)。 「散るもめでたし」といって死を喜ぶような死に臨んでの毅然とした振る舞いが、死を達観し、超越したもの、また、現世での生を達観し、真実の生を生きたものの証として受けとめられたからです。 人々もまた、このような毅然とした姿を美しいものと感じ、美しい死をもって立派な生の証として受け取ってきました。 こうした英雄的死をもって死の受容の理想的な姿とする傾向は、長い歴史的過程を経て現代にまで引き継がれ、第二次世界大戦中にも、英雄視の理念が日本軍を支配していたのは周知の事実です。 20世紀の日本の代表的作家のひとりである三島由紀夫は、「死の美学」をうち立て、自ら割腹自殺を遂げました。 しかし、英雄的で立派な美しい死が直ちに立派な生を意味しているものではありませんし、決然と英雄的に死に臨んでいくことだけが素晴らしい死の受容の仕方ではありません。 江戸時代の国学者本居宣長は、仏教に対しても死後の世界について思弁を弄するものとして排斥しましたが、武士道的英雄死に対しても、死に臨んで死を達観したかのように振る舞うのは欺瞞であり、儒教的な「唐ぶり」であると非難しました。 彼は、「死なんとするきわに至りて、ことごとしきうたをよみ、あるいはみちをさとれるよしなどよめる。まことしからずして、いとにくし」と語っています(4)。 本居宣長が、死に臨んでの真実な気持ちを伝えるものとして称賛するのは『伊勢物語』の中で在原業平が詠んだ「ついにいく 道とはかねて聞きしかど、きのふけふとは おもわざりしを」という歌でした。 思いもかけない時に、驚きのうちに死を迎えなければならない、それが現実であるというのです。 死をどのように美的に飾ってみたところで、死の不安を克服することはできませんし、英雄的な死は、実際の現実的な死の姿で打ち砕かれてしまいます。現実の死の多くは惨めで悲惨ですらあります。生や死は、超越したり達観したりできるものではなく、ただその中で人が生きることができるものに他ならないのではないでしょうか。 |
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