死の受容(1)
熊本県立大学公開講座 1995.8.29
1.序
限りある生命を生きる人間は、否応無しに自分の生命活動の終わりとしての死を迎えなければなりませんし、愛するものや近親者の死に直面しなければなりません。
私たちの生命には限界がありますし、人間は、どんなにあがいてみたところで、この限界ある生命を生きているにすぎないという厳然たる事実を前にして生きているに過ぎません。「まだ死にたくない」と思っても、死ななければならないのが人間です。
生物学者たちは、動物の心臓が、数億回コトコト打つとすべて同じ回数で自然に停止することを発見しました。つまり、心臓の鼓動が早く打つ動物は早く死ぬし、ゾウのように大きな動物で遅く打つのは、それだけ寿命も長いというわけです。
ですから、もし長生きをしたければ、あまりドキドキしないことが重要なのですが、それでも、どんなに長生きしても、また、医療技術が発達しても、いずれは必ず死ぬわけです。
「やじさんきたさん」でおなじみの「東海道中膝栗毛」を書いた江戸時代の戯作者十返舎一九は、「いままでは人のことじゃと思うてきたが、俺が死ぬとは、こいつはたまらん」といったと伝えられますが、「こいつはたまらん」のが自分の死というものでしょう。
特に、いろいろなことを考えたり想像したりして生きている人間にとって、自分の死はいつも未体験の領域の出来事ですから、すべての命あるものがやがては死ぬと分かっていても、死には不安や恐怖や圧倒的な絶望感がつきまといます。
それだけに、自分の死をどのように受け入れていくのかは、大変重要な、ある意味では、人が生きること全部の鍵になることだろうと思います。
そこで、今日は、この「死の受容の問題」を少しみなさんと考えてみたいと思います。
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