世俗化社会におけるキリスト教教育の課題(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)日本カトリック教育学会 1999.9.11
III.九州ルーテル学院大学での試み九州ルーテル学院大学における人格教育・人間形成教育の柱として置かれたキリスト教教育のカリキュラムは、具体的には、
の3本柱で行われてきた。 また、「奉仕」の具体的体験として、「ボランティア学習論と実習」が組まれ、社会福祉施設や医療福祉施設での体験学習が義務づけられている。 ただし、ボランティアや体験学習を必修として義務化することは本末転倒であり、その発想は筆者の理解を越えているものではあるが、キリスト教精神はそれらの活動の精神的支柱であることが関連づけられている。 さらに、異文化を体験する「異文化体験学習」(基幹科目ー全学生必修)によって、グローバルな視点とものの考え方を身につける学習プログラムが組まれ、これらのプログラムがキリスト教教育と有機的に関連し、学生の人格教育・人間形成に有効なように配備されている。 「異文化体験学習」自体は、特に目新しいプログラムでもなく、これを必修とすることも筆者の理解を越えたことではある。海外に簡単に行けるというホワイトカラー的意識の産物のように思えてならないし、グローバルな視点は、どこかに出かけたからといって得られるものでもない。これを義務化することは愚の骨頂のように思えるが、海外体験をしないよりはした方がよい程度のことであろう。 ただ、いずれも、これらは教育プログラムであるから、その目的は人間形成である。 しかし、こうした人間形成教育に主眼を置く学習プログラムは、その成果を簡単に見ることができず、それに携わる教職員の長い忍耐と努力、常に目標を見失わない姿勢を要求する。 次に、キリスト教教育の各プログラムの実情と課題を少し見てみたい。 (1)チャペルにおける礼拝チャペルにおける礼拝は、毎朝10時17分から32分までの15分間に行われている。この時間の確保のためには多くの犠牲がはらわれているが、実情は「ただの休み時間」になってしまったきらいもある。現状では、学生が礼拝に出席する平均出席数は年々減少し、10%に満たない。アンケート調査によれば、欠席の理由は、
礼拝が「ただの休み時間」となるか「最も重要な時間」となるかは、そこで行われている礼拝の内容、特にその説教と密接に関連している。礼拝出席者数の増減と特定の説教者との間には相関関係が見られるからである。 学校礼拝は、教会における礼拝の神学的位置づけとは別の、「人間としての問題提起」、「一つの生き方の提示」、「文化的体験」、「芸術」、や「教育」といった、いわば「究極以前」の要因が極めて大きく働いている。 「究極のもの」を指し示すために「究極以前のもの」は重要であり、チャペルにおける説教者は常に「究極以前のもの」の中で、「究極以前のもの」を「究極のもの」の前に立たせる役割を負っている。 そして、そのような自覚に基づく説教はお題目のようにして唱えられるキリスト教用語の無意味さから解放されて、聴衆である圧倒的多数の非キリスト者の学生と教職員の現状と彼らの精神の奥深い不安や苦しみの琴線に触れる。 それによって、チャペルの礼拝の時間は、「講議」や「研究」に代表されるような学校教育の他のどの時間よりも最も重要な時間となるのである。圧倒的多数の非キリスト者が集う学校のチャペルにおいては、キリスト教はその説教によって建ちもし、倒れもするのである。 一方、学生が礼拝に出席する理由の多数は、アンケート調査によれば、「心が落ち着くから」である。 礼拝に出席する学生の多くは比較的真面目に勉学や学校の諸活動に取り組んでいる学生であるが、彼らが心の落ち着きを求めるのは、日常生活において真面目に取り組めば取り組むほど、想像以上に多くのストレスを感じていることを示している。「ストレスからの解放」と「いやし」は、チャペルとそこでの礼拝の持つ重要な要素である。 しかしそれはことさらキリスト教でなくても良いのであり、擬似宗教や新興宗教でも得ることができるものに過ぎない。 それがキリスト教の礼拝でなければならない点はただ一点、「リアリティーを持った、今、ここでの神の言葉の告知」、言い換えれば、実存的真理の提示にかかっているのである。 そしてここでも、最大の課題となるのは、近代的人間中心主義によって世俗化された人間に、神の恵みと祝福、福音をどのように真実に語り得るのかという現代のキリスト教がかかえる根本的問題に他ならない。 |
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