学校の将来と教師の役割

世俗化社会におけるキリスト教教育の課題

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日本カトリック教育学会 1999.9.11

 最近では、ミッション・スクールと教会の伝道が不可分の関係を持っていることが再認識されて、ミッション・スクールの存立のためには教会の青年伝道の強化が必要であることが主張され、ミッション・スクールの「キリスト教性」を強めることが重要であるとの指摘もあるが(10) 、世界的規模で進行しているあらゆることがらの人間中心主義的転換は、教会の伝道論の転換をさえ要求するし、学校教育の専門知識の強化に伴う非宗教化を促進する。

その端的な例が、ミッション・スクールで行われている聖書の授業の目的の変化である。

多くの場合、その内実はともかくとしても、聖書の授業の目的として掲げられているのは、キリスト教の「伝道」ではなく、「人間形成」である。

先に挙げた広島女学院の場合、聖書の授業を初めとするキリスト教教育を、「聖書の教えを通しての人間形成」と位置づけているし、九州女学院が1996年に新設した九州ルーテル学院大学では、「キリスト教精神に基づく全人教育」とか「キリスト教精神を基礎に個人の人格を磨く」といったことが謳われている。

ここには、もはや伝統的に志向されてきたキリスト教の伝道といった視点はなく、力点は「人間育成・形成」や「人格教育」へと完全に移行している。

それはかって「修身」や「作法」として位置づけてきた日本のキリスト教理解の必然的結果でもあるし、キリスト教の人間論的転換、つまり「世俗化」でもあると言えるであろう。

 しかし、これらのことは、(学校)教育の本来の目的が「(真理の探究による)人間の育成」にあるとすれば、教会の立場は別として、学校教育の本来的目的への移行でもある。

また、キリスト教の福音の豊かさが、その人間論に明瞭に表わされ、もしそれが正しく行われるとすれば、「聖書に基づく人間の形成」はキリスト教教育の本来的根幹であるに違いない。

日本におけるキリスト教学校(ミッション・スクール)の現状は、その意味では、学校教育にとっても、聖書の教えそのものにとっても、より根幹に近くなってきているのではないだろうか。

 つまり、日本のキリスト教学校(ミッション・スクール)はアカデメイア的「イデア(真理・理想)の探究」と伝統的な「実学の修得」、あるいはよく言われるような「研究」と「教育」といった日本の高等教育の二重の機能を「人間の形成・人格の育成」といった概念で統合し、それと同時に、キリスト教会の伝道を狭いセクト主義や党派意識、組織形成主義から解放し、聖書が真実に提示する「福音の豊かさ」に基づく人間の形成を行うことができる可能性を内包し、それを実現できる岐路に立っているように思われるのである。

それだけではなく、驚異的に発達してきた諸科学の個々に細分化された諸知識を、「人間の形成」の概念で統合し、鋭利に専門化されたが故にバラバラに分裂し、全体の方向性を失ってしまった諸学問に対して諸科学の基盤と全体的方向性を指し示すことができるのではないだろうか。

 ただ、そのためには、キリスト教学校の教育に携わる者、またキリスト教教育に直接に携わる者が、教育の実学的風潮に安易に流されていく愚かな世俗主義や教派組織の拡大だけを図るような党派主義に陥らないで、聖書が提示するあらゆることがらの深い人間論的理解を持ち、「福音(聖書のメッセージ)理解」の深化と慎重なその実存論的展開、現実の人間が置かれている状況に対する鋭い感覚を持つことが、かって以上に要請されていることは疑い得ない。

 こうした理解の下で、1996年に新設された九州ルーテル学院大学は、「人間の育成・形成」を主点においた複合的な総合学科としてのカリキュラムを組み、キリスト教教育をその柱として据えた。それ故、ここで、そのケースを考えてみることで、日本におけるキリスト教教育の具体的な課題を探ってみたい。