世俗化社会におけるキリスト教教育の課題(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)日本カトリック教育学会 1999.9.11
II.教育の世俗化としての実学的風潮とキリスト教学校の可能性(1)「学校」が果たしてきた社会的役割と実学的風潮日本社会において学校制度が西欧の学校制度を導入することで定着してきた過程には、大きくあげて二つの要因が働いているように思われる。 第一に、明治以降にとられてきた「富国強兵政策」に基づく西欧技術文明の修得が緊急な必要性をもって迫られたことである。 新しく開かれた国際社会の窓に映ったのは西欧の科学技術の圧倒的力であり、その修得は急務のこととして立ち現れたのである。 その時導入された西欧文明は、明らかに人間中心主義的世俗化が進行しつつあった合理的科学技術中心の西欧文明であり、それは、現実主義的に科学技術のみを修得しようとした日本社会にとって、真に好都合であったのである。横井楠南が教育原理として「実学」を提唱したのは、「理」に叶ったことであった。それはまた、もともと「読み書きそろばん」の寺子屋的教育原理をもっていた日本社会に抵抗なく受け入れられたのである。 日本は、このことを第二次世界大戦後にもう一度経験することになった。 戦後の多くの日本人の精神を支配したのは、日本人の精神性の敗北感と、占領軍として統治したアメリカ合衆国の圧倒的な物質文明の力であり、広島と長崎に投下された原子爆弾に象徴されるような驚異的な先端科学技術の力である。 「科学技術の黒船」が再来し、敗北を痛感した人々は、先端科学技術の修得をもって、荒廃した社会の復興に賭けたのである。 戦後の教育の第一義的目的は、先進の科学技術の修得に他ならなかった。学校はなによりもその科学技術を修得する場所であり、学校教育が「実際に役にたつものの修得」、つまり「実学」として位置づけられたのは、必然的結果であったのである。 たとえば、今日でも、「大学を出てもなんの役にもたたない」という非難が大学教育に対して向けられるのに対して、大学は「専門教育」という名目で「実際に役にたつ人材の育成」をうたい文句にすることによって大学教育の意義を確立しようとする。 資格の修得と「産学共同」はその線上にあり、学校教育は、教育の「実学性」をもって社会に認知されてきたし、また、認知されようとするのである。 第二に、そのように位置づけられた学校教育を終了することは、科学技術を身につけることであり、それはそのまま社会における「階級」の上昇を意味した。 「学校」は、階級上昇の正当な手段として位置づけられ、「学歴社会」なるものが形成され、圧倒的多数の低所得層の人々は、社会階級の上昇の期待を持って「学校」を受け入れ、学校制度を整えようとしてきたのである。 それは日本の家族制度の問題とも密接に関連するが、子弟を学校に入学させることは人間としての精神性の育成以上に、具体的な何らかの階級上昇が期待されたのである。この事情は、今日でもあまり変わっていない。 こうしたことから、日本における「学校」が、もともと「実学」的傾向をもっていたことを伺い知ることができるし、社会も全体としてそれを期待してきた。 それは学校制度が定着して1世紀以上たつ現代でもあまり変わりがない。日本の大学は、哲学や神学から出発してきた西洋のアカデメイア的伝統とは別の社会的意義づけを持っているのである。 明治以降に設立されたキリスト教学校(ミッシヨン・スクール)は、こうした状況の中に置かれたし、今も置かれている。 |
||||
![]() |
||||