世俗化社会におけるキリスト教教育の課題(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)日本カトリック教育学会 1999.9.11
(3)「世俗化」がキリスト教にもたらした課題近代社会の世俗化が進行し、人間はあらゆることがらを現世界的に判断し、行為するようになった。 そこで、伝統的な宗教的観念や理念は崩壊の危機に直面し、これまで理解されてきた超越的で神秘的な「神」は、人間の一般的な生活の領域から失われ、ただ伝統文化的儀式や神話の世界の「神」となり、従来のキリスト教信仰は根底から揺さぶられることになった。 それと同時に、かって「神」という前提によって意味を付与されてきた世界自身も、その存在の根本的意味を失い、疎外とニヒリズムの危機に直面した。世俗化を押し進めてきた近代的人間中心主義は、人間が不確かな自分自身を中心に据えることによって、かえってその存在の意味を喪失させ、すべての瞬間に空虚な無が立ちふさがることになったのである。 それ故、キリスト教信仰は、今日、二重の危機に直面している。キリスト教信仰そのものを総点検しなければならない危機と、現実にもたらされている世界自身の危機・人間の危機である。 つまり、キリスト教信仰は、この変化し続ける現実世界に、神の啓示の出来事を押しつけがましい異質な法則としてではなく、現実の人間に直接的・絶対的に関係を持ち、この現実の直中で起こる出来事としてどのように語ることができるのか、そして、虚無に取り囲まれ、戦争、環境破壊、飢餓、貧困、差別に代表されるような多くの問題を抱えている現代社会と人間に向かうべき正しい方向を指し示すことができるのか、という問題である。 「キリスト教教育」はこの課題を真正面から担わなければならない。なぜなら、現代のキリスト教信仰が抱えるこの二重の危機をキリスト教教育は教育の場で乗り越えなければならないからである。 現代の学校における教育と学問は、それぞれの専門領域が細分化され、その細分化された専門領域で諸科学がばらばらに合理的事実を追求し、それによってかえって諸科学と学問の根本的・全体的基礎づけを失い、教育全体の方向性を失う危険性をはらんできている。 今日の学生たちの多くが、勉学の目標を失っている現実は、そのことにも起因しているように思われる。学生のアンケート調査によれば、1997年に新設された九州ルーテル学院大学の場合、70%弱の学生が大学での勉学に関して明確な目標設定ができないでいる(8)。 一般的傾向として、大学の選定を受験のための偏差値で行い、大学が本来もつ学問性や教育機能、カリキュラムで選択したのではない彼らが、自己の教育の目標設定として掲げることができるのは、せいぜい資格の取得や就職、「気晴らしのための遊び仲間」の形成であることは当然の結果と言えるであろう。 彼らが学校教育から得たものは、学問の専門性を深め、人格を育成し、世界や人間の諸問題を解決する姿勢や方法であること以上に、「仲間との友情」であり、彼らの講義の選択は、その内容ではなく、資格の取得と単位の取得しやすさに比例して行われている。 大学側もまた、この風潮を受け入れて、自ら世俗主義的・実学的傾向を強めてきた。 世俗化がもたらす学問的風潮は、「真理の探究」や「理想」ではなく、あらゆる学問の実学化に他ならない。これは、後で触れるように、日本における「学校」そのものがもってきた根本的傾向の必然的結果でもある。 従って、「神理解」と「世界と人間の危機」の二重の問題を抱えるキリスト教信仰に基づくキリスト教教育、および「キリスト教学校」は、日本の学校がもつ実学的風潮を明確に理解し、そこでのキリスト教教育の意義を明確にする必要がある。キリスト教教育は、この課題を具体化しなければならないからである。 そこで、次に、日本の学校がもつ実学的風潮と、そこでキリスト教学校(ミッションスクール)がどのような経過をたどってきたのか、二、三の例を見てみたい。 それによって日本におけるキリスト教学校(ミッションスクール)とキリスト教教育の意義が比較的明白になってくると思われる。 |
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