学校の将来と教師の役割

世俗化社会におけるキリスト教教育の課題

(1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
日本カトリック教育学会 1999.9.11

(2)「世俗化」概念の意味

 一般的に用いられる「世俗化」という言葉は、世界を「聖」と「俗」の二元論的構造によって認識し、「聖」なる世界に属すると見られていたものが、その「聖性」を失って「俗」なるものに還元されていくことを意味している。

M.ハイデッガーは、「世俗化」を、「超感覚的な世界の優位性を説く伝統的な形而上学的思惟が、近代科学、あるいは近代哲学で主張された人間主義、理性主義の運動のために、次第に勢力を失い、没落過程に入っていること、とりわけキリスト教的西欧文化の崩壊の徴表を意味する」(2) ものとして理解している。

また、M.ウェーバーは、カルヴァン主義で強調されたようなプロテスタント倫理と近代西欧社会の資本主義的合理主義との間に親和性を見い出し、「世俗化」を近代西欧社会の合理化過程とみなしている(3)

神に選ばれた者としての絶えまのない向上を禁欲的にめざす宗教意識が社会生活の動機として働く過程で、起源において宗教的に動機づけられていた社会行為が、やがては独自の合理性ないしは法則性を獲得し、その独自性を強め、自立し、宗教意識との関連性を失い、それが他の分野にも徐々に浸透し、社会全体の合理化と非魔力化をいっそう促進させた、と指摘する。

 こうした指摘は、近代西欧社会全体における「世俗化」が、近代科学に象徴されるような人間の合理的思惟と、あらゆることがらの人間中心主義的転換とに密接に関連した現象であることを意味している。

 社会の合理化を押し進めてきた近代的思考の根本原理としての「人間中心主義」は、より根源的には12世紀のトマス・アクィナスのアリストテレス哲学の受容に求められるかも知れないが、一般的には15世紀のルネサンスを経て準備され、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」で始まると言われている。

しかし、その現象が最も明瞭な姿で現れたのは、啓蒙主義ではないかと思われる。

 啓蒙主義は、E.トレルチによれば、中世的教会の超越主義に対する反対、理性と啓示の分裂に対する反対、超自然主義的啓示の生活支配に対する反対、世界の内在的解明、合理主義といったものを時代の全影響下でもっぱら知的方法によって獲得しようとした運動である(4)

また、P.ティリッヒは、啓蒙主義の本質を、人間の理性が何の制約もなく自由に行使されるところに見ている(5)

人間の理性が超自然的・宗教的制約から解放され、自由に行使されることによって、現実世界は、観察され、分析され、技術的に取り扱うことが可能となり、それと同時に、人間はその理性の行使者である主体として、言い換えれば、世界の主人となったのである。

そこで、超自然的・形而上学的に位置づけられてきた「神」は、もはや認識と思考の仮説としてなくてすむものとなり、現実的なことがらのすべてが非神話化されていったのである。

その理性の自己解放が人間の自己解放の歴史的運動として人間の生活のすべての領域において浸透していく過程が、近代西欧社会における「世俗化」に他ならない。

そうであれば、それは単に社会現象として生起した状況というだけではなく、合理性を追求する人間精神の必然的な過程をも意味していることになる。

近代西欧社会の世俗化現象を古代社会の祭儀宗教の形成過程から分析したウェーバーは、「世俗化は、世界の非魔力化と合理化の普遍的過程である(下線筆者)」(6) と指摘しているが、世俗化は、西欧社会の合理化の歴史的過程というだけではなく、神話的、もしくは宗教的「神中心主義」から「人間中心主義」へ至る人間精神の変化の過程を意味していると言えるのではないだろうか。

西欧精神文明の世界的拡大によって形成されてきた現代世界の根本問題が、この「人間中心主義」のあり方にあることは疑い得ない。

後述するように、西欧文明の導入によって始められた近代日本における社会形成も学校教育も、必然的に近代西欧社会の世俗化と人間中心主義の影響を受けてきた。

とりわけ、もともと現実主義的傾向が強い日本の精神風土の中では、社会全体の西洋化が「薄められた上澄み液」の状態で進められてきてしまったために、人間の育成を図る学校教育において合理的理性の追求は現実主義的に安易に進められたきらいがある。

そのため、現実に役に立つものだけが尊重される功利主義や能力主義、学問の実学化、人格なき知識教育、詰め込み教育と勉学の無目的化、そこから生じる差別やいじめ、学級崩壊、など数限りない問題が生じている。

それ故、これらの問題を根本から解決するためには、現在進行している「世俗化」を根本的に見直し、その人間中心主義的転換を検証し、その問題点と課題が明確にされる必要がある。

そして、キリスト教教育のあり方を探る時には、それに加えて、世俗化された「神」なき社会は本質的に「世俗主義的傾向」(7) をもつが故に、「深化された神理解」を再構築していく必要がある。

ただし、ここでは、紙面の都合上、それらがキリスト教信仰とその教育にもたらした問題点を言及することにとどめ、そこから現代のキリスト教教育のあり方を問うことだけにとどめたい。