教会の教父たち「るーてる」紙掲載 1996.4〜1997.3
アンティオケのイグナティウスイグナティウスは、信仰と勇気の人である。彼は初代教会の使徒教父を代表する人物であるが、教会史の中で独特の光をはなっている。 彼を描いた後代の肖像画では、彼はいずれも広い額の中に強い信仰の意志を秘めた人物として描かれている。それは彼がローマ帝国による殉教を復活信仰によって成し遂げたからである。 彼は一世紀の半ば、35年頃に小アジアで生まれ、中年になってからキリスト教を信じ、やがてアンティオケ教会の第二代目の監督となり、110年頃にローマで殉教したと言われる。 彼の前半生については何も知られないが、アンティオケはシリア州の首都であり、帝国第三の都市として50万人近くの人口があったといわれる。 当時、そうした都市は、一方では高い教養の育成と共に、他方では宗教的混合と倫理的退廃を含む文化的混乱状況に置かれていたが、彼もそのような中で成長し、やがてキリスト教との出会いが、彼の人生を決定していったともいえる。 彼が自分の教会としたアンティオケの教会は使徒パウロが異邦人伝道の足掛りとした教会であり、クリスチャンという呼び名が最初に使われたり、パウロの異邦人伝道を支えたり、常に神の普遍的な愛に基づいて革新的で新しいことへと挑戦する教会でもあった。 彼が直接パウロを知っていたとは考えられないが、そうした教会の中で、パウロの信仰思想を受け継いでいったことは疑いえない。しかも彼は、第二代目の教会の責任者として、迫害の中でそれを実践的に行おうとしていたと思われる。 そのことは彼が自らをテオフィロス(神を宿すもの)と名のっていたことからも伺える。彼は危機的状況の中でも神を信じて生きる姿を貫こうとしたのであり、教会の責任者としてローマ帝国から死刑の宣告を受け殉教へと向かったのもそのためである。 今日知ることができるのは、彼がローマに監送される途中で近隣の教会へ送った七通の手紙だけであるが、死に赴く者とも思えない平静さで、信仰と教会の一致をか語っている。
スミルナのポリュカルポス一般に「使徒教父」と呼ばれる初代教会の偉人たちは、ペトロを初めとするイエスの直弟子たちの後に続く二世代目の人々であり、各々の弟子の影響を受け、その信仰を継承しつつも新しい時代と状況、さらに困難な課題に誠実に対応していった人々であった。 紀元70年のユダヤ戦争によってエルサレムが崩壊して以後、二世紀になるとキリスト教会の中心はローマと小アジアに移り、その小アジアにおける指導的人物の一人がポリュカルポスである。 彼はスミルナの教会の監督であり、イグナティウスとも親交があって、イグナティウスがローマで殉教する前に彼にその後の教会のことを委託する手紙を送ったりするほどの信頼関係にあったと思われる。 ポリュカルポスは『黙示録』の著者ヨハネの弟子で、彼がスミルナの教会の監督になったのはヨハネに直接任じられたからとも言われる。ホリュカルポス自身もそのヨハネから受け継いだ「教会の伝統」というものを非常に大切にした人で、特にその後の東方教会に大きな影響を与えた人である。 また彼は初期キリスト教思想史上最も重要な人物となるイレナイオスの師であったとも言われている。 それは、彼が異端と呼ばれたマルキオンを「教会の伝統」という観点から反駁したことからも明らかであるが、イグナティウスやイレナイオスのような思想的な独創性や激しい信仰をもっていたわけではない。 晩年、ローマの主教との復活日の決定についての論争においても、一致を見ずに、それぞれの教会が各々の慣例を維持するに至るという中庸的な解決しか見い出すことができなかったが、平和的に別れたと伝えられている。 彼は新しい思想に基づく論争的な人間と言うよりも、むしろ、彼の人間関係や書簡から推測すれば、静かで平和的な人物であったと思われる。 彼はその手紙の中で、信徒の義務やキリスト教的徳を繰り返し進めているが、ローマ帝国の祭りのさいに捕えられ、背教を迫られたが否んで火刑によって殉教したと言われる。
殉教者ユスティノスユスティノスという名前は、歴史上、ローマ皇帝やグノーシス主義者に同名の者がおり、それらと2世紀のキリスト教弁証家を区別するために、通常、後者を「殉教者ユスティノス」というふうに呼んでいる。 彼は知的誠実さという点では初代教会随一の人である。 彼自身が語るところによれば、彼は、2世紀の初め頃ローマ人かギリシャ人の両親の間にサマリヤで生まれ、若い頃、「真理」を求めて、当時を代表するストア派、ピタゴラス学派などの哲学教師を訪ね歩いたという。 そして最後にプラトン学派の教師の下でその哲学を学んでいった。彼は、プラトンの教えにしたがってイデアについての観想によって神に近づく境地に入ろうと瞑想を続けた。 やがて偶然キリスト者の老人に出会い、人間のエロース(求める心)によらずただ神の啓示によってのみ神を知ることができることを教えられキリスト者となったという。 彼は他の哲学教師と同様に哲学者の衣を見にまとい、学生を集めて彼の「真理(キリスト教)」を講じ、やがてローマで学校を開き、165年頃に殉教した。 多くの書物を書いたといわれるが、今日残っているのは、晩年に書いた『弁証論1,2』、『トリュフォンとの対話』の3種類だけである。 彼の人生の転機となったあの出会いのキリスト者の老人が誰なのかはっきりしないが、この彼の精神の遍歴は、当時の多くの知的に誠実な青年たちがたどったであろう思想遍歴をユスティノスもまた辿ることによって、キリスト教こそが真の哲学であることを主張するためのものである。 しかし、真実に求めるものだけが真実の出会いを経験することができるのだから、彼の知的探究の遍歴はあながち誇張とは言えないであろう。「真理」への道は出会いによってしか開かれないからである。 彼はキリスト教の哲学的弁証に努め、キリスト教の普遍的真理性を強調したが、その姿勢には現代神学に通じるものがあるように思われる。現代の神学者に彼ほどの知的誠実さを見い出すことはできないが。
エイレナイオス(130年頃〜200年頃)エイレナイオスは思索の人である。 115〜130年頃に小アジアのスミルナに生まれ、ヘレニズム文化の最高の教養を身につけ、殉教したポリュカリポスからヨハネの伝統を受け継ぎ、後半生をガリヤ(現在のフランス)のリヨンの司教として生きた。 彼はまた、教会の精神生活の第一級の人間を代表するとも言われている。 彼は、ローマ帝国内ではどちらかといえば辺境に位置するリヨンの町で、当時の世界に流布していたすべての思想、グノーシス主義やモンタノス派などの宗教現象を鋭く観察し、分析し、考え、論じ、5年の歳月をかけて5巻からなる名著『異端反駁論』を表わした。 彼の静かな思索の中から生まれてきた『異端反駁論』は、歴史的にも計り難い価値をもっている。 その『異端反駁論』の中で、一例を挙げれば、彼は「キリストは人となられた時、新に人類の長い道程を開始され、簡潔で、包括的な仕方で救いを与えられたのだから、私たちは、キリスト・イエスにおいて神の像と似姿を回復することができる。」と述べている。 そこには、使徒パウロが伝道した小アジアの教会の伝統をきちんと受け継ぎつつ、リヨンの司教として、「救い」の問題に関心を集中させて、キリスト中心に「教え」を展開していく彼の姿がある。 そして、彼は、その高い知性と教養にあふれた言葉で、使徒たちより教会に伝えられた「福音の信仰」があらゆる文化的・精神的営みの最高のものであるとの確信を語った。 神学的にも、「反復・復元」、「神の像・似姿」や「処女マリアの高挙」などの後の神学に大きな影響を与えた概念を形成した。 しかし、彼は自分を独創的な神学者などと考えたことは一度もなかったし、「新しがり屋」や思想の流行を追うような軽薄さとも無縁であった。むしろ、教会の教えの伝統と聖書に立ち、静かで、しかし燃えるような信仰の確信をもって、一般的な「教理」を説き明かしていった。心に深く残る人の一人である。
テルトゥリアヌス(150年頃〜220年頃)最近、「言葉づかい」ということを、深く考えさせられている。言葉の曖昧性は思想の曖昧性を意味しているからである。そして、意味不明な言葉や、本当は何も理解していないのに分かり切ったことのようにして使われる特殊用語の羅列は思想の死滅をもたらす。 私自身の説教も含めて最近の教会の説教の貧困はここに由来するかもしれない。「罪」の現実さえもよく知らないのに「罪のゆるし」や「救い」について「お題目」が唱えられたりする。 「信仰の言葉」が特殊用語化されると、その命は失われる。それだけに、キリスト教が本来もっていた生き生きした信仰の言葉を、厳密に再考し、回復していく必要が迫られているのかもしれない。 初代の教父の中で、「信仰の言葉」を厳密に規定し、それによって西方神学の基礎を築き、その方向性を決定したのがカルタゴのテルトゥリアヌスである。 彼は、それまでの教会の指導者たちがギリシャ語を用いていたにもかかわらず、ラテン語でものごとを考えた。彼は、ギリシャ語で理解されたキリスト教とラテン語世界を結びつけ、そのために、ラテン教父の父と呼ばれた。 そこで彼は、人間の探究としての「救い」ではなく、神の恵みの啓示を徹底させ、それまで比較的曖昧に用いられていた「信仰の言葉」の概念を、彼の深い知識に基づいて厳密に規定した。 「三位一体」という言葉も彼の言葉である。彼の業績は偉大の一言に尽きる。 ローマ帝国の軍人の子として生まれ、法律や哲学、ギリシャ古典などの当時の最高の教育を受け、すでに法律家としてローマで活躍していた彼は、殉教者たちの最後の姿に感動してキリスト教に改宗したと言われている。 しかし、彼は、その人格も人生も、あまりに厳密すぎたのかもしれない。そのことが彼に災いし、晩年、彼はより厳格な禁欲生活を主張したモンタノス派に近づき、法律家にありがちな「厳密な裁きと戦い」の人となってしまった。彼を見て、「緩やかな愛と厳密な思考」を考えさせられる。
キプリアヌス(200/10年頃〜258年)一人の人間の思想を代表するような言葉は、本人の意図とは別に、やがて一人歩きをして勝手な解釈をされる運命にあるのかもしれない。 「教会の外に救いなし」と語ったキプリアヌスの言葉も、その代表的なものの一つである。 キプリアヌスは、テルトゥリアヌスの知的遺産を受け継ぎ、カルタゴの司教として、「教会の一致」のために苦心をした人である。 彼は、テルトゥリアヌスのような独創的で革新的な思想を形成したわけではなく、どちらかといえば保守的で、問題解決のための教会会議を開催したり、教会組織を整えたりした実践的な教会指導者であった。 252年から253年にかけてカルタゴでペストが流行した際に市民のための医療活動を起こしたりしている。 「教会の外に救いなし」という言葉は、資格のない非キリスト者によって授けられた洗礼の有効性を巡って論争が生じた時に、「教会の司教・監督が司る礼典によってのみ神の恵みは有効に働くので、その洗礼が無効である」ことを主張するために言われた言葉で、司教職を中心にして組織化された現実の教会の権威づけの言葉である。 彼は同じ意図で、他にも、「教会を母として持たない者は、神を父として持ちえない」という、これもまた有名になった言葉も残している。 当時、ローマ帝国による迫害が強められたり弱まったりする中で多数の棄教者や復帰者が生じていく状況にあって、組織化された教会の強化を図ることは、3世紀の教会の焦眉の課題であったに違いない。 しかし、キプリアヌスのこの言葉によって、教会が悪しき特権意識を持ってきたことは事実である。彼の神学は、時代の神学でしかなかったのかもしれない。 真実の神の教会は、常に、神の前で、「教会とは何か」を問い続けなければならないのに、彼の教会についての言葉が、それを放棄させてしまった。 しかし今、私たちは、あえて、「教会の内に救いはあるのか」と問わなければならないのかもしれない。
アレキサンドリアのクレメンス(150年頃〜215年頃)2〜3世紀のキリスト教がローマ帝国内の都市を中心にして発展していったことは良く知られているが、この時代に、ローマと並んでキリスト教史上重要な都市があった。 地中海沿岸のアフリカのアレキサンドリアである。パピルス(紙)の工場と有名な図書館で知られるこの町は、高い教養と文化を誇るヘレニズム文化の中心地であり、宗教や哲学などの思想的自由の雰囲気が漂っていた。 旧約聖書とユダヤ教がフィロンによって新しい解釈の道を開かれたのもこの町であった。 そして、この町でヘレニズムのギリシャ文化とキリスト教の福音を見事な姿で結びつけたのがクレメンスである。 クレメンスは、その生涯についてもごくわずかなことしか知られず、残されている著作も少ないが、真に「思想家」と呼ぶにふさわしい第一級のキリスト教思想家である。 彼は、各地で哲学を初めとする諸学を学び、キリスト教に真理を見出だして改宗し、パンタイノスの後を継いで、190年頃に教会の長老として、また、学校の校長として人々に神学を講じた。 初期キリスト教神学を集大成させ、東方キリスト教神学の基礎を築いたオリゲネスは彼の弟子である。 クレメンスは、ギリシャ思想と文化を大胆に認め、なおその上で、人間の経験に基づく思弁ではなく、「神の啓示」に基づく「真理」を強調した。 それは、たとえば、外見上はほかの市民と変わらずに生活しているが、常に福音の精神によって活気づけられていくような、新しいキリスト者の姿を提示するものであった。彼はそれを組織的にきちんと考察したのである。その思想と在り方は、今日の私たちの在り方に深い示唆を与えてくれる。 彼は、日本の教会の中ではあまり顧みられてこなかったが、独特の文化的伝統をもち、世俗化した現代の日本の社会の中でのキリスト教の在り方を考える時、改めて彼の思想を考えて見る必要があるように思われる。
オリゲネス(185年頃〜254年頃)オリゲネスは、天才である。 教会史上いく人かの優れた人が出現してくるが、組織的な思考と思索の広深さにおいて、彼は群を抜いている。ヒエロニムスの伝えるところによれば、彼は2000冊にも及ぶ書物を著作し、キリスト教神学を高度なものにした。 しかし、天才は天才によってしか理解されないという悲しい運命を背負わなければならない。彼の生涯も、彼の思想も、悲運の嵐にもまれ続けた。 若輩の頃から、学生たちの評判を得たが、教会の組織は、多くは嫉妬から、彼を正当に評価しなかった。 彼は、アレキサンドリアのキリスト者の家庭で生まれ、幼い頃から聖書に親しみ、諸学を学んだ。そして、他の誰よりも聖書に精通する者となったが、迫害によって父を殺され、財産を没収され、生活のための苦労が後を断たなかった。 クレメンスの後を継いで若くしてカテケシス学校の責任者となったが、蔵書を売って生活費に当てるなど、極度の節約と禁欲生活を送った。 晩年もまた、アレキサンドリア教会の主教デメトリオスから追放され、また、帝国の迫害、拷問を受けた。彼を支えたのは、ごくわずかな親しい友人たちだけであった。 しかし、彼は、志を高くもち、純粋な精神を失うことはなかった。オリゲネスの生涯をたどると、涙を禁じ得ない。 紙面の都合で、オリゲネスの神学内容をここで述べることはできないが、220年ー30年の間、彼が40歳の頃に、キリスト教最初の教義学といわれる「原理論」を表わし、それ以後のギリシャ語圏の神学的発展を支配することとなった。 しかし、彼の主要な著作は、聖書全巻におよぶ膨大な量の注解と講話である。『六部共観(ヘクサプラ)』は、最初の聖書本文批評として著名である。 彼は平信徒であり、教会の組織からは認められなかったが、名説教家であり、説教の準備のためには多くの時間を費やしている。彼の一生は「疲れを知らぬ勤勉な一生」であったと言えるだろう。
エウセビオス(260年頃〜339年)熊本では最近、漱石百年祭ということで色々な催しが行われているが、有名な『草枕』の冒頭で、漱石は「知に働けば角がたつ、情に竿をさせば流される」と語っている。 漱石は、どちらかといえば生き方がへたな人であったと思うが、世の中の流れを良く読み取って、そこをうまく泳いで行くことは、一つの才能かもしれない。 歴史家エウセビオスは、時流を読む才にたけた人であった。キリスト教会最初の「教会史」を著述し、初代教会の重要な資料を残した彼は、オリゲネスが集めたアレキサンドリアとカイザリアのキリスト教図書館で一生を学究の徒として過ごした。 彼が生きた3世紀末から4世紀初めは、ローマ帝国と教会の関係が大きく変化した時代であった。 ローマ皇帝ディオクレティアヌスは、キリスト教への大迫害を敢行した。多くの殉教者が出た。そして、次のコンスタンティアヌス帝は、キリスト教を公認し、教会は帝国内に社会的地位を獲得していった。エウセビオスは、その激動の時代をうまくすり抜けていった。 教会内部でも、アリウス論争に代表される神学論争が激しくなり、ニカイア会議が開かれ、東方と西方の分裂が決定的となっていったが、エウセビオスは、これもうまくすり抜けている。 彼は、世の中の流れをただ受け入れようとしただけかもしれない。しかし、こうした人間に特徴的ではあるが、彼は、ローマ皇帝を「神の模像、神の代理人」とするような愚かな専制主義的理念を作り出し、迎合的にキリスト教と国家権力を結び付けてしまった。 彼に、その師オリゲネスのような深い思想を見ることはできないが、彼は、初代教会を知る上で貴重な資料を収集し、10巻にも及ぶ最初の『教会史』を著述し、後世に偉大な功績をした。 その意味では、彼は古典的歴史家を代表する一人である。彼は、図書館で、神の歴史の勝利をひたすら信じて、黙々と歴史を記述していった。学問の孤独に耐えようとする時、彼は、ある光を放っている。
ヒエロニムス(340年頃〜420年)聖書学者として、ヒエロニムスは超一流の人である。 長い間、ローマ・カトリック教会の権威ある標準聖書として用いられてきたラテン語訳聖書「ウルガタ」の訳者としての彼の学的功績と影響は計り知れない。 彼はキリスト者の家庭に生まれ、ローマで文学、修字学と哲学を学び、20歳の頃に洗礼を受け、修道士になることを決意して苦行の生活に入った。 文学的関心を自ら戒めて聖書に集中し、パレスチナの砂漠で、ヘブライ語を学び、さまざまな神学を学んだ。彼は独創的な思想家ではなかったが、その学識の広さは群を抜いている。聖書の翻訳に当たって、その原典にまで遡ったところに、彼の学者としての厳しさと誠実さを見ることができる。 彼は、独身と禁欲生活の修道院生活の利点を主張し、西方の伝統的慣習を重んじた。また、アウグスティヌスを支持し、ペラギウス主義者を論駁した。 しかし、原典に忠実に翻訳するという細かな仕事や、オリゲネス批判や諸学説の批判に見られるように、彼の主張は常に論争的であり、執念深く、「寛容」の精神とは無縁であった。 彼の狭い心は、あわれをさえさそう。性格的に、彼は熱しやすく冷めやすいところがあったのだろう、そのために、多くの支持者と同時に反対者もかなりあったと思われる。 そして、教会内の権力闘争に敗れ、40歳の頃、366年〜384年にかけて、パレスチナのベツレヘム(キリスト誕生の地)の洞窟で、「ウルガタ聖書」を完成させ、その修道院長として死に至るまで過ごした。彼は典型的な修道士の一生を送ったのである。 とにかく、聖書の翻訳者としてのヒエロニムスの業績は、後の中世の教会の方向をさえ決定したと言えるし、その聖書学的影響は今日まで続いている。 私は、個人的に、こうした初代の教父たちの真にコツコツとした研鑽に深く頭を下げさせられる。
アタナシオス(295年頃〜373年)三位一体論と受肉論の公同信仰告白であり、ルーテル教会の基本信条の一つである「アタナシオス信条」の名前を冠されたアタナシオスは、しかし、悲劇の人であった。 彼は、3世紀の末という激動の時代に文化都市アレキサンドリアで生まれ、若くして、プラトン、アリストテレス、新プラトン主義などのギリシャ哲学の古典と文学、キリスト教を学んだ。 そして、主教アレキサンドロスに師事し、書記として任用され、325年のニカイア公会議に出席し、神の絶対性を強調するあまりにキリスト従属説に傾いたアリウス派を論駁し、名声を得たが、10年後、アリウス派の策謀とローマ皇帝コンスタンティヌスによって追放され、以後、生涯にわたって5度の追放を受けたのである。 60歳の時、3度目の追放を受けて、エジプトの砂漠に逃れなければならなかったが、その地で多くの著作を刊行している。しかし、その思想は、やがて、正統派神学の主流となった。 彼の神学思想は論争によって生まれてきたものであるが、彼の熱情と性格の激しさが多くの敵を作り、さまざまな陰謀といわれなき非難によって、彼の生涯は波乱に満ち、不幸な運命に翻弄され続けた。 しかし、あらゆる暴力と陰謀に強い信仰をもって立ち向かう姿は、信仰による鋼鉄の人を連想させる。 彼を見ると、わたしは、自分のキリスト教信仰が、戦後の日本のヒューマニズムの博愛主義の謳歌に便乗して、「思いやり」や「優しさ」を強調するあまりに軟弱なものになってしまっていることを反省させられる。 戦うことがよいことではないが、信仰は「強さ」であることを再考する必要があるような気がする。 人は、それぞれの時代と状況の中で、その運命に翻弄されながら生きなければならないのかもしれないが、信仰はそれに打ち勝つ強さを与える。キリストが死に勝利したことの意味を考えさせられるのである。アタナシオスは、鋼鉄の人であったのである。
アウグスティヌス(354年頃〜430年)アウグスティヌスは、教会史においても思想史においても、歴史の中で、登頂不可能なくらいひときわ高くそびえ立つ山である。古代のキリスト教思想は、彼において頂点に達し、そこから広い裾野を持つ中世が始まったのである。 しかしそのことは、彼の思想が体系的に一貫したものであることを意味しているのではない。むしろ、彼の思想は、歴史的に偉大な他の思想家たち以上に、巨大で深い矛盾の塊である。 一言で言えば、巨星アウグスティヌスは矛盾の人であり、その矛盾があまりにも深く大きいが故に神学と哲学の幾筋もの道筋をつけたのである。 彼は354年、北アフリカの海岸の町で、世俗的な性格をもつ父パトリキウスと敬虔なクリスチャンの母モニカの間に生まれ、修辞学を学び、文学に関心を持ち、17ー18歳の頃、一人の婦人と同棲し、一子を設けた。 19歳の時、キケロの『哲学の勧め(ホルテンシウス)』を読み、深い精神的世界と真理への情熱に駆られた。しかし、聖書の文体と教会生活に反発し、混合主義的なマニ教へ帰依した。 約9年間の長きに渡ってマニ教徒として過ごすが、イタリアのミラノで修辞学教師をしている時にアンブロシウスの説教を聞き、高度なキリスト教思想に触れ、32歳で回心した。 かれはそのミラノで内縁の妻と離別し、他の婦人と婚約したが、そのことが彼の罪の自覚に深く影響している。やがて北アフリカのヒッポで司教となり、修道院を設立し、430年、ローマ帝国崩壊の足音を聞く中で没した。 彼は人間の本質的罪を自覚し、神の恵み(恩寵)の絶対優位性を説き、三位一体の教理を確立し、この世における神の国の姿を明瞭にしたが、当然のことながら、この紙面で彼の思想の詳細を語ることは不可能である。 最後に、これまで12回に渡って12人の教父たちを短く紹介してきた。彼らはすべて、謙遜な魂で研鑽を重ねた人々であった。心したい。また、個人的に執筆を励まして下さった方々に感謝している。
|
||||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||