現代倫理学講座
II.人間(2)人間とは何かの考察その2紀元前5世紀ごろに人間理解の思想的表現としてまとめられたもう一つの優れたものは、旧約聖書の『創世紀』の「アダムとイブの創造神話の物語り」です。 『創世紀』の「人間創造の神話」には、「ギリシャ神話」における人間理解にはない、「罪あるものとしての人間」といった、深くて鋭い人間理解がありますが、聖書の人間理解は、ここで簡単に触れるというわけにはいかないくらいの重大な人間理解がありますから、それは節を改めて触れることにして、ここでは、紀元前5世紀ごろに、人間理解の深くて鋭い、そして重要な思想的表現が行われたということを記すだけにしておきたいと思います。 その後、古代ギリシャ思想においては、先に述べたような「人間は万物の尺度である」とか、「人間は社会的動物である」とか、「人間はロゴスをもつ動物であり、合理的動物、理性的存在である」といった人間観が生まれました。 これらの人間観は人間そのものを良く観察し、分析し、理性的に思考された人間観ですし、後の西欧思想を基礎づけ、人間の価値を決定づける判断材料とさえなってきました。 その中でも、西洋のものの考え方の歴史的変遷から見て、興味深く、また、特に重要なのはプラトンが提示した人間観であろうとおもわれます。 プラトンの人間観も、基本的には、それまで考えられたきた伝統的なギリシャ思想の人間観を受けて、人間を理性的生物とする人間観です。 彼は『クラテュロス』の中でソクラテスの口を借りて、「“人間(anthropos)”という名前が何を意味するのかと言うと、他の動物たちが、自分の見るものを何ひとつ考察せず、検討もせず、観察もしないのに反して、人間は見た−つまり視た(opope)−だけでなく、同時に視たものを観察し(anathrei)、考量するということなのだ。 まさにこのことからして、動物たちのうちでひとり人間だけが、正しくも“人間(anthropos)”、つまり“視たものを観察するもの”(anathron ha opope)と呼ばれたわけなのだ」(4)と述べて、認識と考察をする人間の理性的精神性をもって「人間」を定義づけています。 しかし、プラトンの最もプラトンらしい人間理解は、彼の『饗宴』の中に見られるように思われます。 彼はそこで、人間がなぜ現在のような姿と形になったのかということについて、アリストパネスという登場人物を借りて、次のような神話を語ります。 人間はもともとは現在の倍の大きさと力をもっていたが、その力の大きさの故に自分を神にするという傲慢が始まってしまいました。昔も今も、自分の能力の過信による傲慢ほどやっかいなものはないのかも知れませんが、これを見たオリンポスの最高神ゼウスは怒り、この人間の力を弱くして凶暴性を失わさせるために、人間を真二つに切断してしまうのです。 さらに、もしこれで人間が反省しないなら、ゼウスはこれをまた二つに裂いて一本足の姿形にするつもりでしたが、そこまではしないですんだのです。 それで、現在の人間の姿と形は、こうして生まれた、とアリストパネスは言うのです。 「そこで本来の姿が二つに断ち切られたので、皆それぞれ自分の半身を求めていっしょになった。そして互いに相手をかい抱きまつわり合って一身同体になろうと熱望し、お互いから離れては何一つしようという気がないから、飢えのためや総じて生活に必要なことを何もしないでいるために死んでいった。」と語り、「したがって、ぼくらはヒラメのように一つのものを二つに断ち切られたのだから、一人一人が人間の割符というわけだ。だから誰でも自分の割符を探し求めるのだ」と言います。(5) このアリストパネスの口述をかりて語るプラトンの人間観には、真に興味深い、そして現代の私たちが改めて考え直さなければならないいくつかの重要な人間理解が込められているように思われます。 その第一は、人間が本質的に「欠如」をもつ存在であるということです。 「プロメテウスの神話」では、人間の生物学的、器質的弱さ、いわゆる「欠陥」が語られましたが、プラトンの場合は、極めて存在論的で、人間が、存在論的な本質として、「欠如」している存在であることが明瞭に認識されています。 そして、この「欠如」を補うために何かを求めることが宿命づけられ、人間は、その本質的欠如感からくる欲求に基づいて行動する、というのです。 この欲求する力をプラトンは「エロース(愛)」と呼び、それを人間の行動原理として位置づけました。 「エロース」は、今日では、ただ、性的な欲求を意味する言葉としてのみ用いられたりしますが、性的な欲求を表すだけなら「エピトゥミア」という言葉がありましたので、本来、「エロース」は、性的な欲求を含むが別の次元の欲求を表す言葉だと思われます。 プラトンはこの話の結論の部分で、「完全なものへのこの欲望と追求に、エロースという名がつけられているのだ」(6)と述べていますから、「エロース」は、「本来の自己を求める力」、あるいは「完全を求める力」と言うことができるでしょう。 人間があらゆるものに向かって理想的な完全を求める衝動と言ってもよいかもしれません。 それ故、彼の人間観を一言で言い表すとすれば、エロース(愛)に基づいて、永遠に「完全」を求め続けるもの、とでも言うことができるように思われます。 それは、いかにも「理想(イデア)」を追い求めたプラトンらしい人間観ですし、自己の欠如を埋めるべく懸命に努力していく人間の姿には、切実な感動さえ呼び起こすものがあります。 プラトンが描くアリストパネスの説話で、もうひとつ重要なことは、その人間の欠如を埋めるのが、「他者の存在」であるということです。 それが、「割符」のような自己の片割れであれ、なんであれ、人間は自己の欠如を自分自身によって埋めることができないし、そのためには「他の存在」が必要不可欠である、というのです。 実際、私たち人間は、精神的にも肉体的にも、他との何らかの関係なしに生きることができない関係存在であり、他との関係の充足によってのみ、生きていることの十分な喜びを感じ取ることができる存在に他なりません。 人間が本質的にもつ「他との関係性」については、後ほど考えたいと思いますが、人間が自己の充足のために、あるいは真実の自己実現のために「他の存在」を必要とし、それを見い出すことができない時には死に至るというプラトンの人間観は、ともすれば発達した自己意識の故に自己中心的になりがちな現代の人間が深く傾聴しなければならないものがあるように思われます。 |
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