現代キリスト教倫理の基本問題

現代倫理学講座

はじめに
I.倫理学の概念的命題
_(1)倫理学の枠組み〜(2)日本的倫理構造 _(3)西洋的倫理構造(ギリシャ思想) _(4)西洋的倫理構造(キリスト教)
II.人間
_(1)人間学的集中 _(2)人間とは何かの考察その1その2その3その4
_(3)生物的存在 _(4)理性的存在 _(5)関係存在 _(6)聖書における人間観

II.人間

(2)人間とは何かの考察その1

 少し歴史的に見てみますと、「人間とは何か」という問いの萌芽は、最初に述べました人間の世界開放性の故に、人間の原初的状態から宿っていました。

 初めは、もちろん、自分の周りの動植物と自分を比べて相違を感じるような感覚的な意識であったに違いありませんが、それが明瞭に思想の形として表現されるのは、残されている資料の限りでは、紀元前5ー6世紀ごろからです。

 たとえば、『ギリシャ神話』の中の有名な「プロメテウスの神話」では、動物には生存のための適当な能力が与えられたが、人間だけが取り残され、これを見たプロメテウスが人間を憐れみ、火を使う技をはじめ種々の技術を人間に授けた、と記されています。

 この「プロメテウスの神話」における人間の洞察には、まことに鋭く深いものがあるように思われます。

 それは、第一に、人間には他の動物に備えられている生存のための本能的能力が欠如しているという指摘です。

 M.シェーラーの影響のもとで、現代の生物学の研究成果を受け入れ、総合的人間科学を提唱しているA.ゲーレン(Gehlen)は、人間が生物形態学的にサルの胎児の進化が停滞した「欠陥動物」であり、生理学的に正常化された早産児であり、生きるための器質的手段を欠いているために、直立歩行、言語の使用、技術的行動などの文化的手段を講じて、その欠陥の負担を軽減しなければならないように定められている、と論じています。(3)

 例えば、歩行移動能力に関して言うならば、他の動物が誕生と同時に移動可能になるのに比べて、人間が自分で移動できるようになるまでには、およそ1年という長い年月を必要とします。

 さらに、生殖可能になるまでには、他の動物の5〜10倍の年月を必要とします。

 A.ゲーレンは、その生物学的器質的欠陥の負担を免除しようとする「負担免除」の行為が人間の存在の本質構造としてあることを明瞭に認識しようとするのです。

 この主張だけを採ってみれば、このA.ゲーレンの主張は、「プロメテウス神話」における人間理解の科学的論証と言うこともできるように思われますし、古代の「神話」における人間理解の深さをよく示してくれていると言えるのではないでしょうか。

「プロメテウス神話」の人間理解の優れたことの第二の点は、人間が生存のために火を初めとする種々の道具を使う知能と技術を有する生物であるということです。

 技術は、もちろん、知的行為の産物ですので、A.ゲーレンの言葉を借り、人間が知的に営む行為の総称を「文化(Culture)」と呼ぶとすれば、人間は、その生存のための「負担免除」の行為として、文化的行為を行う生物に他なりません。

 古代ローマ時代の雄弁家キケロも人間を「文化的動物」として定義しましたが、もともと「文化」を意味する欧米語の語源となったラテン語の「cultura」は「耕作」や「土地の世話」を意味し、人間を指す「ホモ(homo)」は「大地(humus)」という語根をもっています。

 アダム(人間)はアダマー(地)に由来します。

 つまり、「文化」とはこの大地である「人間」を耕すことを意味し、人間が自分自身と自分の環境を開発することを意味しているのです。

「プロメテウス神話」は、この「文化的行為」を行う知恵が人間にプロメテウスによって与えられたものであることを語りますが、古代ギリシャ神話の「神(ゼウス)もしくは神々から与えられた」という表現はそのものの本性として備えられていることを表しますから、「プロメテウス神話」は「文化的行為」が人間の本性であることを伝えているに他なりません。

 それは、現代の人間学のいう「負担免除としての文化的行為」とか「人間の世界開放性」という思想と、根本においては、同じ人間理解であると言えるように思われます。

 しかし、ギリシャ神話における人間理解が、あくまでも人間を自然世界の一部とした理解であったことは注意しなければならないことのように思われます。

 それは他の多くの「神話」においても言えることですが、人間は、宇宙や世界の中心ではなく、その一部に過ぎないものとして位置づけられ、理解されています。

「神話」においては、先ず最初に、コスモス(cosmosー現在この言葉は「宇宙」を意味する言葉として使われている)と呼ばれる絶対的に聖なる世界秩序が存在し、この世界秩序を統括し、維持するのが神々であり、人間はその世界秩序の一部にしか過ぎないのです。

 そして、この人間の位置づけと理解は、「神話」から「科学」へと進んでいったギリシャ思想の過程においても、聖なる世界秩序としてのコスモスの概念が具体的なポリス(国家)や社会へと変わっても、変わることがありませんでした。

 古代ギリシャやローマ社会にあっては、社会全体の総体においては、人間はあくまでポリスや社会に役立つものとして訓育され、位置づけられ、理解されたのです。

 その意味では、人間はあくまでも全体の中の小さな部品にしか過ぎず、個人としての「人間」そのものが重要視されるのは、もっと後の時代になってからなのです。