現代キリスト教倫理の基本問題

現代倫理学講座

ただ生きることではなく、よりよく生きることが問題だ。--- ソクラテス ---

はじめに
I.倫理学の概念的命題
_(1)倫理学の枠組み〜(2)日本的倫理構造 _(3)西洋的倫理構造(ギリシャ思想) _(4)西洋的倫理構造(キリスト教)
II.人間
_(1)人間学的集中 _(2)人間とは何かの考察その1その2その3その4
_(3)生物的存在 _(4)理性的存在 _(5)関係存在 _(6)聖書における人間観

はじめに

 人間は誰でも「生きることそのもの」を自らの宿命的課題として背負いつつ生きていかなければなりません。

 人はそれを「人生」として問わなければなりませんし、人間にとって、「今日を生きること」は常に大きな精神的・肉体的課題として立ち現われてきます。

 そして、ここに倫理学の根本の課題があるのです。倫理学は「生きること」を問う学問だからです。

 そして、倫理学は、その「生きることの根本」から、さらに、「より良く生きること」へと向かいます。

 古代ギリシャの賢人ソクラテスは、「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなく、より良く生きることだ」と語ったと伝えられますが、「より良い生の追求」は、人類が誕生し、人間が自らを人間として意識して以来、常に変わることなく人間が追い求めてきたものに他なりませんし、歴史上形成されてきたあらゆる文化は、その「より良い生」の追求の産物とも言えるでしょう。

 ここで取り扱う倫理学も、基本的に、この「より良く生きること」を求めるところから出発します。

 しかし、生きることそのものも、そう簡単なことではありませんが、「より良く生きること」は、考えれば考えるほど、本当に難しいテーマだと思います。

 構造的に複雑になってきている現代社会の中ではなおさらのことで、「良いこと」そのものの基準が、いっそう曖昧なものになってきているからです。

 古代ギリシャ語では、「良い」ということは「正しい」とか「美しい」とかいう言葉と同義の意味で用いられて、ある種の調和のとれた状態を表わしていました。

 しかし、言葉の本来の意味そのものは変わらないとしても、今日では、そのような言葉が差し示す事柄の内容そのものが、実際には多種多様なものであることを認識せざるを得なくなりました。

 たとえば、私たちの日常生活のレベルにおいても、私たちは、自分にとって良いことが、他の人にとって良いとは限らないことを、すでに知っています。

 また、ある民族や文化、社会の中で「良い」と言われていることでも、他の社会では「悪い」とされる場合が多々あります。

 あることを「良い」という時、それは、限定された時代や状況、歴史的背景や社会の中でだけ言い得ることであって、別の時代や社会の中では、別の判断が下されます。

 習慣や文化はその民族の基本的な価値基準を示していますので、文化の相違が価値基準の相違であるのは当然のことです。

 世界の広がりとともにさまざまな文化や思想との出会いによって、私たちは、普遍的で絶対的な善悪の基準などはどこにもなくて、ただ相対的なものでしかないことを知らなければならなくなりました。

 ですから、ただ「良い」といっても、そこでは、さまざまな条件が必要となるのです。

 こうした価値の相対化によって、私たちは、他の異なったものに対する認識を新しくすることができるようになりましたが、しかし、それと同時に、生や死といった人間の基本的なことについての倫理的な判断も、限界のあるその時々の恣意的なものにすぎなくなってしまいました。

 そして、この恣意的な判断ほどやっかいなものはありません。ある場合には、一つの問題にいくつもの答えが出され、それぞれが自己主張することによって、問題だけが山のようにあって答えが見い出せないといった状態が続いてしまうからです。

 「良い」ということ一つをとってみてもそうですから、他の問題は言うまでもないことです。それを克服して、「より良く生きる」ためには、なんらかの共通理解が新しく構築される必要があるのです。

 本書の最終的な目標もここにあります。

 さらに、価値基準の相対化の問題に加えて、現代という時代に特徴的な問題もあります。その一つは、科学的合理主義が限界状況に達しているという問題です。

 19世紀から20世紀、そしてさらに21世紀にかけて膨大な量の科学的事実の発見と思索が積み重ねられて、あらゆる分野における諸科学は目覚ましい発展を遂げてきました。

 生物の遺伝子の構造や物質の分子構造のミクロの世界から140億光年も離れた宇宙の果てのマクロの世界に至るまで、人間の科学的観察の領域は広げられ、諸科学のそれぞれの専門分野が細分化され、その細分化された中で驚嘆に値する進歩が遂げられてきました。

 それゆえ、多くの哲学者や歴史学者たちは、今の時代を「科学の時代」とか「科学的客観主義の時代」と呼んでいます。

 後の時代の歴史家たちは、より厳密に「科学的思惟の黎明期」と呼ぶかもしれませんが、科学的合理精神と客観的認識に基づいて、状況判断はもちろんのこと、社会と歴史の方向や未来に対しても、判断と決定が下されるようになってきたのです。

 しかし、客観的合理主義を前提にする現代科学は、その客観性のために、どこまでも学問それ自体を細分化し、増殖させていこうとする傾向を本質的にもっています。

 客観的知識は、それが増加すればするほど、より真理に近づくのですから、知識は知識を求めてさまよい始めるのです。

 そして、その自己増殖作用がいかんなく発揮されて、専門分野がそれぞれに細分化されていくに従って、かえって全体的で総合的な視座が失われ、その専門知識を含む科学全体が人間にとってどんな意味を持つのか、といった根本的なことさえ曖昧になってきたことも事実です。

 人類が自らより良い生活のために生み出した科学に、今度はその人間自身が振り回されていくという皮肉な結果になってしまったのです。

 そして、たとえば原子力エネルギーや遺伝子工学に代表されるように、諸科学がもたらす巨大な成果を、それ自身偉大な成果であるにもかかわらず、それをきちんとコントロールする総合的な認識も方法も、私たちはいまだに見出だすことができないでいます。

 より良い生活のために作り出される物質とそれを産み出すための産業廃棄物による環境汚染と破壊が、反対に人間の生命環境の危機をもたらすということが起こっているのです。

 20世紀の世界は、原子爆弾と環境破壊の世界になってしまいました。

 これらの危機的状況を乗り越え、人間が未来に向かって生き延びるためには、なんらかの普遍的な共通認識を持つ倫理の再構築が火急のことになりました。

 そのための最も根本的な問題は、あれこれの個別的なことやそれに携わる者の道徳性の問題以上に、科学的・技術的発達の中から生み出されてくる事柄そのものが向かう方向にあるのです。

 つまり、科学技術を含めた人間の発達が、最終的にはいつも、人間にとって本当に良い意味をもつのか、という倫理の問題にいき着かざるを得ないことをきちんと認識して、その倫理の普遍的な基準が必要不可欠となってきているのです。

 科学、政治、経済の問題を含めたあらゆることがらが、その根底に倫理的基礎を持つことができるかどうかに、今後の人間全体の命運がかかっているのです。

 明らかに、世界史的に人間は今、その存在の命運をかけた倫理的危機の時代に突入しています。その意味で、普遍的な倫理学の形成は急務のことだと言えるのです。

 こうした時代の状況下で、おそらく、いま最も必要とされていることは、総合的な視座と判断であるに違いありません。

 倫理学の課題は、たとえ日常の小さな事柄を考えるにしても、極めて複雑で重大な問題を内包していますし、倫理学そのものは、長い歴史をもつ学問であり、多くの重大な思索が積み重ねられてきましたので、これらの歴史的遺産と良く対話し、全体を見通しつつ、生きることの喜びが生き生きと感じられるような考察が、ゆっくりとなされるべきでしょう。

 それが倫理学に携わるものの最大の課題であると、私は思っています。