人間の価値の発見

人間の価値の発見

「同和」教育講演会 熊本県立鹿本農業高校        1996.10.24

1.序

 本日は、「同和教育−人権教育」の講演会ということで、日頃、「人権」について私が考えていますことを少し皆さんと分かち合うことができればと思っています。

「人権」というのはなかなかややこしい問題ですし、私の拙い話しで、眠くなったり退屈されるかもしれませんが、最後までご清聴いただければ嬉しく思います。

2.なぜ、「人権」を考えるのか。

(1)「あたりまえのこと」

 さて、「人権」といいますのは、文字どうり「人の権利」のことです。日本国憲法の中には「基本的人権」という言葉があり、私たち人間は、だれでも、「生きる権利を持っている」と謳われています。

日本国憲法の「基本的人権」には、もう少し深い社会経済的な意味もありますが、簡単に言えば、ここにいる私たちは、だれでもすべて、人間として生きる権利があるのだ、というのです。そして、もっと積極的には、人はだれでも幸せになる権利があるというのです。

 私たちは、生きていく上で、辛いことも悲しいことも山ほどありますが、しかしやはり、幸せに暮らしたいと思っています。私もそう思いますし、皆さんもそう思われていると思います。何よりも幸せに暮らすためにこそ、皆さんはこの学校で勉強されているのですから。

 私たちは人間として生きる権利を持っている。これは、現在の私たちには「あたりまえ」のように聞こえるかもしれません。

「お前なんかに言われんでも分かってるわい。わざわざ体育館に座らされて、かったるい話なんか聞けるか。これが一番不幸だ」と言われる方がおられると思います。もしそう思われる方がおられたら、私はその方に拍手を送りたいと思います。なぜなら、その「あたりまえ」と思われることが、とても大事なことだと思っているからです。

世の中には、「あたりまえ」のことが「あたりまえ」にされないことがあって、たとえば、人間が石ころや家畜のように扱われてしまうことがたくさんあるからです。身近なことでは、差別やイジメもそうです。

(2)「人権」が無視されるいくつかの例

 私が知っておりますことのいくつかの例を挙げて見ますと、これは今から36年前の1960年、まだつい最近のことと言えますが、四国に住む30才の女性が一通の遺書を残して自殺されました。その遺書にこう書いてあったのです。

 「お父様、お母様。度重なる不幸および先立つ不幸をお許しください。一度、他家に嫁いだ以上、辛苦に堪えて、愛する夫と添い遂げる決心でおりましたが、...見知らぬ異郷の地で、冷たい差別の中にあって、頼る人も、相談する友もなく、希望の一切を失った私は、人の情けが無性に恋しく、ただ淋しかったのです。生きて返れぬ故郷に、今、仏となって優しい父母の暖かい胸に帰ります。」

 彼女は、長野県のある村に生まれました。学校を卒業して、横浜のデパートに勤務していました。彼女が下宿していたアパートに、たまたま大学生のK君がいて、お互いに朝晩の挨拶を交すうちに親しくなり、K君が大学を卒業すると同時に、彼の故郷の愛媛に行って結婚することになったのです。

K君は両親と一緒に鉄工所を経営し、二人はみんなから祝福されて、本当に幸せな新婚生活を送っていたのです。ところが、ふとしたことから、K君の父親が彼女の戸籍を調べて、「お前の生まれは卑しい」と言い始めたのです。

彼女は、あまり豊かな家庭に育ったわけでもありませんし、中学校しか出ていませんでしたので、本当に苦労しました。愛媛も始めての土地でしたので、そこのしきたりや礼儀の知りませんでした。失敗も重ねたと思います。

そして、「お前の生まれは卑しい」と言われた日から、K君の両親はもちろん、Kくんからも、周りの人々からも無視される日々が続いたのです。彼女はひとりぽっちになり、「だれもが信じられなくなりました」と書き送って、遺書を残して、自らの命を断たれたのです。

 「生まれが卑しい」と言って無視される。「ちょっとおかしい」と言って無視される。人から無視されることほど、人間にとって辛いことはないのです。最近の例では、皆さんも記憶に新しいと思いますが、ある中学校で、ひとりの中学生がクラスメイトを始め担任の先生からも生きているのに葬式をされて自殺をするという事件がありました。

葬式をされるということは、死んだものとして扱われるということです。そこに生きているのに、死んだものとして無視されてしまうということです。この中学生は、そのことに耐え切れなくなって死んでしまいました。

 皆さんの中には失恋というものを経験された方がおられると思います。失恋というものはなかなか辛いものがあります。ある学生がこういう話しをしてくれました。彼女は、同級生の中に高校3年間づっと思い続けた人がありました。いよいよ卒業ということになって、卒業すれば離れ離れになりますから、勇気を振り絞って告白しました。「ずっと好きでした」と。すると、彼は一言、「君はぼくの好みやない」と言って、彼女を無視して行ってしまったのです。ひとり残された彼女は、「好みやない」という言葉もショックでしたが、無視されたことがもっとショックでした、と言うのです。

もし私がそういうことを言われたら、その晩のうちに阿蘇山の火口に飛び込んだかもしれませんが、彼女は、自分が否定された痛みに耐えつづけました。しかし、ショックはショックで、「そんな男とつきあわんで良かったよ」という私の言葉も慰めにはなりませんでした。

 人から無視されて、理由なき差別やイジメを受けるというのは、この失恋した時の気持ち、それ以上の辛いことが続くということなのです。差別やイジメは、その人を自分と同じように生きている人間として認めず、私たちのだれでもが持っている幸せに暮らしたいという願いと権利(人権)を「あたりまえのこと」として認めずに、そのようなことを無視してしまうことから生まれてしまうのです。

 ですから、「人間はだれでも、本当にだれでも、人間として生きる権利を基本的に持っている」ということを「あたりまえ」にすることは、私たちが人間として豊かに生きる上では本当に大切なことだと思います。

人権を考えるということは、こういうこと、(失恋は別にしてですが)少なくとも人が自らの命を断たなければならないようなことをなくしていくということです。

 しかし実は、残念ながら私たち人間は、人類が誕生してから今まで、この「あたりまえのこと」を「あたりまえ」にすることができませんでした。人種差別や民族差別、経済的な差別や性差別や能力差別、数え上げれば切りがありません。ようやく最近になって、少し反省されてきているのですが、まだ難しい問題を抱えていると思います。

3.人間の本質的不平等

 なぜ、こんな単純なことができないのか。誰でもが悪いと思っていることがなくならないのか。

 それは、ひとつには、人間が本質的に不平等の中を生きなければならないからです。そしてその不平等を認めようとしないからです。

よく、「人間は平等だ」と言われますが、人間は、決して平等ではありません。小学校や中学校で、「人間はみな同じです」と教えられましたが、それはごまかしです。人間はひとりひとり違います。

ひどい先生になると「みんなと同じことをしなさい」とか「他の人ができるのに、どうしてお前ができんのだ」といって子供をしかったりします。その先生は、自分が差別の原因を作っていることに気がついていないかもしれませんが、それが、みんなと違うことをする人を差別したりイジメたりすることを生んで行くのです。

 人間はひとりひとり違います。その生まれ育っている環境も、与えられている能力も、顔も姿も性格も、ひとりひとり違います。ある人は有り余るほどのお金もちの家に生まれます。ある人は、飢えて死んでしまうような家庭に生まれます。ある人は、才能に恵まれ、ある人は恵まれません。

ある人は、もちろん本人の努力もありますが、何か国語も自由に話せますが、「あ」とか「う」と言う一言さえ話せない人もいます。

努力することができるというのも才能の一つです。できない人もいます。目が見えたり、耳が聞こえたり、歩いたり、走ったりすることも、できることもできないことも、ひとりひとり違うのです。

不公平かもしれません。不平等かもしれません。でも人間は、この不公平や不平等の中に生まれ、その不平等の中を歯を食いしばって生きているのです。不公平や不平等を無くしていくことは大切なことです。

しかし、もっと大切なことがあります。それは、私たち人間が、ひとりひとり違うということをきちんと認めるということです。そしてその「違う」ということに本当に、自分の、人間の価値があること発見していくことです。

4.ひとりひとり違うということ、世界に一つしかないことを認めること

 私たち人間は、本当にひとりひとり違います。それは別の言い方をしますと、この世界に、私と同じ人間はひとりもいないということです。

人類は今60億位いるのでしょうか、不思議なことに、この60億の中に、だれひとり私と同じ人間はいません。似た様な方は、あるいはおられるかもしれませんが、同じ顔をもち、同じ姿で、同じように考え、行動する人は、ひとりもいません。

私は小学生のころスキップができませんでした。この中にもできない方がおられるかもしれません。おられたら、その方と友達になりたいのですが、同じできないと言っても、私のできなさと、その方のできなさは違うはずです。

私たち人間は、ひとりひとり違っていて、私という人間、あなたという人間は、世界にひとりしかいません。

 アメリカにおりました時に、こういう事件がありました。ひとりの黒人の高校生の女の子が全身血だらけになって救急車で運ばれたのです。

彼女は、黒人であるがゆえの差別を受けました。アメリカの人種差別には根強いものがあって、残念ながら、今でも、肌の色が違うだけで差別が行われます。彼女は、自分が黒人に生まれたことを呪いました。洗っても、こすっても、肌の色は黒いままで、白くはなりません。

彼女が受けた差別は陰湿でした。それで彼女は、思い余って、泣きながら、自分の体を金属のタワシでこすって、皮膚を剥ぎ取ろうとしたのです。本当に、心も体も痛かっただろうと思います。

 この事件があった時、別の高校生の、やはり黒人の女の子が自分の容姿(姿)、特に髪の毛のことで、白人の男の子にからかわれて悩んでいました。そして、私に、どうしたら私のような真直ぐな髪の毛になれるかと尋ねたのです。

彼女の髪は、黒人特有のチリチリに縮んだものでした。私は彼女に、「君の髪は、世界にひとつしかない」と答えました。彼女が私の答えに納得したかどうかわかりませんが、次の日、彼女は、そのチリチリの髪の毛の一つ一つに小さなリボンをつけて、登校してきたのです。そして「きれいでしょう」と言ってニッコリ笑ってくれたのです。

 この二人の黒人の女の子は対照的です。一人は、自分自身を自分で否定して自分を傷つけてしまいました。もう一人は、たとえそれが自分の気に入らないものだったとしても、自分自身を受け入れて、そこから新しく始めようとしたのです。

 私は普段、学校で、いわゆる女子大生と言われる人達と接していますが、大体、4月に入学して、しばらくしますと、彼女たちはハジケだします。規則が厳しくて、無理やり抑えつけられている学校から来た子ほどひどいのですが、まず、髪の毛の色が変わります。そして、耳に穴が開けられ、眉毛が剃り落とされ、だんだん化粧が濃くなり、化けていきます。そうなりますと、みんな同じ様な顔になって、教壇に立っている私には、もう誰が誰なのか区別がつかなくなるのです。

私は、眉毛を剃って、人気歌手の安室奈美恵さんのような眉毛を描いてきた学生に、「君は本当に勿体ないことをしましたね。君のあの眉毛は、世界にたった一つしかなかったのに。その世界にたった一つの君だけの眉毛を剃り落とすとは、本当に勿体ない」と言います。学生たちは「また先生が冗談を言っている」と思っているようですが、私は本当にそう思っているのです。

 私たちのこの顔、この体、この目や眉、この口や鼻、この能力もできないことも、これは世界に一つしかないのです。私たちは、時々、それが気に入りません。もう少しこうだったらなぁと思うこともたくさんあります。勿論、こうだったらなぁと期待や夢をもって、それに向かって努力することは大切なことですし、素敵なことだと思います。

しかし、自分が気に入ってもいらなくても、とにかく、この私やあなたは、世界に一人しかいない人間なのです。そこに、実は人間の価値があるのです。あなたのとなりの人を見てください。その人は、世界に一人の人です。人間が一人一人違い、その人権を大切にしていくということは、そういうことをきちんと認識していくということだと思います。

 もし、私たちが、人間は一人一人違うんだ、そしてこの違うということがとても大切なことなのだ、ということをきちんと考えることができれば、たとえ、どんなにがんばってもできないことがあったとしても、他の人と同じではないものをたくさん持っていたとしても、そのことを鼻にかけて傲慢になったりすることも、恥ずかしく思ったりすることもないし、そうして、精神的に豊かになることができるし、そしてそこから、あなたの隣にいる人も同じように見ることによって、差別やイジメの問題の克服が始められると思います。

5.結び

 今日、ここでお話ししましたことは、「人権」についての、本当に基本的なことだけでしかありません。そして、わたしは「あたりまえのこと」をお話ししただけです。自分や自分の周りにいる人を大切にするというのは、わかっていても難しいことだと思います。

でも、少しずつ少しずつ、失敗を重ねながらでも、前に進むことができればと願っています。