I. イタリアの諸都市 ミラノ・フィレンツェ
私たちの旅は、現代イタリアの商経済の中心地ミラノから始まった。ミラノはイタリアだけではなく世界の金融、文化、芸術、ファションの中心地の一つでもあり、高層ビルが立ち並び、高速道路が四方に伸び、洗練された人々が往来を忙しげに歩く町である。
この町の歴史は古いが、町は、人間の欲求が巧みに織り成されて形成されている。この町は、今もなお、ルネッサンスの時代に強調された人間の強さ、素晴しさ、才能を高く掲げた町である。そしてそれはまた現代の力を象徴する町でもある。
ミラノの基礎を築いた守護聖人アンブロシウスは5世紀の人である。彼は人間的魅力に富んだ力強い人であったらしい。魂の遍歴と苦悩を重ねた若きアウグスティヌスが、教会堂の片隅で、アンブロシウスの説教を聴き、キリスト教に帰依し、やがて神学と哲学に多大な影響を与える人物になったことは有名である。
ルネッサンスと並んでヨーロッパの近代化を推し進めるものとなった宗教改革は、改革者M.ルターによるアウグスティヌスの再考でもあったといえる。
そのアウグスティヌスの思想的始まりが、このミラノであったことも象徴的である。なぜなら、ミラノは、今なお「新しさ」を追い求める町だからである。
私たちは、二階に巨大な彫刻が立ち並ぶガレリアヴィトリオのアーケード商店街を通り抜け、世界のオペラの中心となっているスカラ座を訪れた。
商店街の彫刻にしろスカラ座にしろ、成金的な派手さはなく、外見は以外に質素であるが、人間の豊かな才能の高らかな宣言を感じさせる。
そのスカラ座と町の中心教会ドゥオーモの間に立つルネッサンスの天才レオナルド・ダ・ヴィンチの巨大な彫像がそのことをよく象徴しているように思われた。
ルネッサンスの人間中心主義を代表するレオナルド・ダ・ヴィンチは、その与えられたたぐいまれなる天分をいかんなく発揮し、特に科学と芸術において人間の可能性をどこまでも広げようとした。
その偉業は、まさに「天才」の名に最もふさわしく、理想的な総合的人間の姿を示してくれている。
彼は人類の中で高くそびえたつ巨人であり、新しい人間の幕開けを高らかに宣言したのである。人間の可能性と素晴しさを信じること。その究極の姿がここにある。私たちの旅はここから始まったのである。 そして、ゴシック建築を代表する「ミラノ大聖堂(ドゥオーモ)」は、その荘厳さと巨大さで、天にそびえんとする人間の営みを誇って余りある。
14世紀に建築が着工され、完成までに500余年を有したこの大聖堂は、まさに、それ以後の近代の人間の歴史を象徴するかのようにそびえ立っていた。
ミラノは、その大聖堂のように、人間の偉大さを示している。そして、それは、そのまま現代文明の姿でもある。ここ数百年の間、私たち人間は、あらゆる分野にわたって人間の可能性と偉大さを追求してきた。自然科学、芸術、経済、社会構造などのすべてに渡って、巨大で計り知れないものへの挑戦が続いてきた。
それらは、かっては教会の建物や王宮に象徴されたが、今は、貿易センタービルや産業ビル、企業、大都市の高層建築物に変えられているだけで、巨大化しようとする人間の基本的営みは変わりなく続いている。ミラノはその歴史遺産とともに、それを顕著に示す現代都市の一つの代表でもあった。

私たちは、そのミラノの大聖堂の側で、悲しげな顔をして私たちの荷物を盗もうとした貧しいジプシーの母娘に出会った。彼女はそうして泣きながら生きる以外に生きる術を知らない。
私には、人間の理想を掲げ、偉大さと可能性を追求し、自己を際限なく増殖させて行くことの問題が、そこにあるように思われてならなかった。
そのことはまた、私たちがミラノで最後に訪れたスフォルツェスコ城の博物館に収めれれているミケランジェロの最後の未完の作品『ロンダニーニのピエタ像』にも象徴されているように思われた。
そのキリスト像の表情に現われているのは、紛れもなく「苦悩」と「不安」、「迷い」である。
ダ・ヴィンチと並んで、人間の力強さ、素晴しさ、立派さを描いてきたミケランジェロが、最後にたどり着いた地平が、「不安と迷い」、「悲しい絶望」であるのは象徴的である。
そのルネッサンスから引き続いて人間の偉業をたたえる現代文明は、思いのほか寒いのである。ミラノで、私は少し風邪をひいた。
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