人間の価値の発見

生きる力

熊本県宇土市尾崎病院健康教室 講演             1996.11.30

1.<序>

 本日は「生きる力」と題しまして、いろいろな問題を抱えながら生きている私たちが、いったいどういうことを考え、また大切にしたら「生き生きと生きることができるのか」ということについて、日頃、私なりに考えていますことを少しお話しできればと思っています。

2.<苦労が報われない人生>

 実は、この「生きる力」という演題を考えましたのは昨年のことですが、今年に入りまして、文部省が新しい学校教育の目標として「生きる力を養う教育」ということを提唱しました。

それは、オウム事件に現われたような現代の青年たちの精神的問題や、イジメに代表されるような子どもの自殺が異常なほど増加したことにもよりますが、戦後、焼け野原で無一物になった私たち日本人が、何とか経済的な豊かさを求めて苦労を重ねてきて、ここまで来て、そして、気づいたら、何か大切なものを見失っている、生きることそのものを支えるような確かのものを見失っている、そういう深い哲学的反省がようやく生まれてきたからだろうと思っています。

ついこの間の熊日新聞で、現代の日本人の6割以上の人たちが、物質的豊かさではなく精神的豊かさが大切であると考えていると報告されていましたが、それは、今、本当の意味での確かな「生きる力」、「自分が生きていることを支えてくれるもの」、時代や状況の中ですぐに変わってしまうののではなく、変わらない確かなもの、人間として生きる上での精神の有り様を求めているといえるように思われるのです。

 私の大学での専門は、倫理学という、簡単にいえば哲学の一分野に属するものも自分の研究課題にしています。

その専門分野の本屋さんの話では、最近は哲学の本が良く売れているというのです。

「哲学」は、元々、西洋の言葉で「フィロソフィー」と言い、ギリシャ語で「愛」を表わす「フィレオー」と「知恵(精神)」を表わす「ソフィア」という言葉から来た言葉で、「知恵を愛する」という意味を持っています。

古代ギリシャの人々は、人間が人間らしくあることを、人間が知恵・精神・心というものを持っていることだと考え、人間らしくあるためには、精神の有り様、心を大切にする必要があると考え、それを学ぶことをフィロソフィー(哲学)と呼びました。

つい100年ほど前までは、「勉強をする」ということは哲学を学び、人間らしくあることを学ぶことだったのですが、それぞれの学問が専門化され、細かく再分化されるにしたがって、その肝心なことが失われてしまったのです。

 ですから、たとえば、今の子どもたちは、自分が何のために学校で勉強するのか良く分からなくなってきていますし、私たちも何のために苦労しているのか分からなくなってきているのです。

ある子どもが、「足し算と引き算と掛け算、割り算だけできれば生きていけるでしょう。なぜ、XだのYだの、方程式だの勉強するのですか」と聞きました。あるいは、「自分は一生日本で生きていくのに、日本語しか必要ないのに、なぜ英語を勉強させられるのですか」と聞きました。何と答えるでしょうか。

 20世紀になりまして、科学技術が驚くべき進歩をとげました。コンピュータは誰でも使えるようになり、遺伝子工学、生物科学、宇宙物理学、を初めとして、この100年あまりの歴史は、人間の外的な科学知識と技術は驚異的に進歩しました。

しかし、残念ながら、人間の内面、精神、心がそれについて行くことができない状態が続いているのです。

 こうしたことの根本的反省が、今、学校でようやく起こってきて、「生きる力を養う教育」ということが言われ出しましたし、私たちの社会全体でも、何か精神的なものを求める気持ちが強くなってきているのには、こういう背景があるように思われます。

しかし、そうした現象的なことだけではなくて、もっと根本的に、大体において私たちは、苦労ばかり重ねて、あまりいいことがない人生を送ります。

現代に生きている私たちは、歴史的に見ますと、比較的良い時代に生きているのかもしれません。少しの不満はあっても、戦争も飢えも、今のところこの日本の社会では起こっていません。しかしそれでも、人生ということの全体を見てみれば、私たちの努力はなかなか報われませんし、「働けど、働けど、我が暮らし楽にならざり」ですし、「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」だと思います。

人生の十分の一も楽しいことがあるでしょうか。いつも将来の不安を抱え、生活の心配をし、病を抱え、老い、死を迎えます。極端に言えば、私たちは、一所懸命働いて、働き疲れて、病気をし、そして死んでいきます。生きている限り、それがつきまといます。

3.否、<生きることは苦労すること>

 仏陀(お釈迦さま)は、人間が生きていることにつきまとうどうにもならない苦しみを「四苦八苦」と呼びました。

「四苦」というのは、生まれること、老いること、病を負うこと、死ぬこと、の4つですが、インドの釈迦族の王子として生まれた仏陀は、29才の時に、この人間がどうすることもできない4つの苦しみを感じ、無常を感じて出家したと言われています。

その最初の「生まれること」というのは、生きていることの罪悪の問題を含んでいて、もう少し、哲学的、宗教的な考察が必要ですが、「病を負うこと」、「老いること」、そして「死ぬこと」は、私たちが自分の日常で経験しますから良くわかります。

誰でも、病気になります。いや、本当は誰でも、病気を抱えて生きています。

「健康」と言う言葉が使われますが、せいぜいそれは、私たちが日常生活を送るのにあまり体の不調を感じなくて生きている状態を差すぐらいで、まったく病気がない状態をいうのではないように思われます。丈夫そうに見えても何かしらの病気を抱えているのではないでしょうか。

それから、「老い」と「死」、生きている限り避け難くつきまといます。

 そして、人間は、その歴史の中で、これらの「病気」とか「老い」とか「死」を負(マイナス)のイメージで考えてきました。

それは当然のことかもしれません。「快、不快」で考えれば、明らかに不快です。病気になって気持ちいいという人は滅多にいません。仏陀もそう感じたように、マイナスの「苦しみ」として考えてきたのです。肉体的に老いを感じなければならないのはつらいことです。死ぬことはなおさらそうです。人が生きている限り、それが必ず訪れるのですから、生きることは、実は本質的に、楽しく嬉しいことではなく、苦労し、苦しむことなのです。

 そしてさらに、私たちのものの考え方の中で、ここで大きな倫理的な問題が起こります。それは、それらの苦しみ、病気になることや老いること、死ぬことを「悪」だと考えることです。

たとえば、私たちはよく、「足が悪い」、「目が悪い」、「胃が悪い」、さらに「頭が悪い」というような表現をします。

 しかし、これらのことを「悪」として考えると、病気や様々な苦しみを抱えて生きなければならないことそのものが、つまりは私たちの人生そのものが「悪」だということになります。

たとえば、目が見えないことを「目が悪い」といって、「悪」だと考えますが、見えないことでいいこともたくさんあるような気がします。見えないことを嘆く変わりに、見えないことを、むしろ喜ぶような生き方もあるのではないでしょうか。

癌を宣告されて余命幾ばくもなくなった時、死が間近に迫ったことを感じて苦しみますが、しかし、残されている時間をひとつひとつ貴重な宝物のようにして生きることも開かれていくのではないでしょうか。

不治の直ることのない病を抱えているけれども、だからこそ充実した人生というのも開かれます。

病や苦悩を「悪」として、善悪の問題にするよりも、むしろ、そうあらなければならない自分を受け入れ、そこから始めることの方がはるかに大切なことのような気がします。

4.四苦八苦の中を生きるー苦悩を積極的に位置づけること

 ですから、苦しみを善悪の問題にしない。生きることは苦しむことですし、苦しみがないことを考えるのではなく、さまざまな苦しみの中を生きること、老いや病気の中を生き抜くことを考える必要があるのです。
 作家の三浦綾子さんは、末期の癌に犯されて、もうほとんど歩くこともできないような状態の中で、「今のわたしが一番美しいし、いまこそが青春」ということをよく語られますが、これは、老いや病気や死の中を「生き抜く」ひとつの姿ではないだろうか思っています。彼女の姿は、やはり、大きな励みです。

 では、どうしたら「生き抜く力」を得ることができるのか。わたし自身がヒントにしていることを少しお話ししたいと思います。

5.生きぬく力はどうしたら得られるか

第二次世界大戦中のユダヤ人強制収容所「アウシュビッツ」での生活を精神心理学者の目で記録したV.E.フランクルの『夜と霧』という書物があります。

強制収容所という生存が極限状態におかれた状況の中で、どんな人が滅び、どんな人が生き延びたかを記録したものです。その状況の中でどんな人が生き延びたのかといえば、だいたい次の3項目ぐらいにまとめることができるのではないかと思います。

  1. 曖昧なうわさや情報に振り回されないで、現実の苦悩をきちんと認識すること。できないことを良く知ること。
  2. 精神的な支えを持つこと。(愛するものの存在、好きになること)自分の孤独な魂と真正面から向き合うこと。
  3. 感動する生き生きした心を失わないこと

 この3つのことは、今の私たちにとっても、本当に重要なことではないかと思います。

 私たちも、自分の現状をきちんと受け入れて、感動する心を失わずに、支えてくれるものを大切にしながら生きたいと思います。そして、この願いこそが「生きる力」となるのではないでしょうか。