現代キリスト教倫理の基本問題

現代キリスト教倫理の基本問題

ー序ー
第1章 キリスト教倫理の構造
 _第1節 倫理の概念的命題(1)(2)(3)(4)(5)
  _第2節 キリスト教倫理の形成と超越(1)(2)(3)(4)
第2章 倫理における超越としての神
 _第1節 宗教と倫理(1)(2)(3)(4)
 _第2節 現代の神学的神理解(1)(2)(3)
  _第3節 現代キリスト教倫理学の基本構造
第3章 「神の前で、神と共にある、神なし」の倫理学
_第1節 倫理的決断に至る現実認識における提題の意味(1)(2)
_第2節「神なし」の現実 世俗化の本質聖書における「神なし」のススメ(1)(2)世俗化と世俗主義
_第3節「神と共に」あること 「存在の深み」としてのインマヌエルー1ー ー2ー非汎神論的「神と共に」
_第4節 「神の前」での認識
小さなまとめと脚注

倫理学は、それがどのような形式をもつものであれ、本質的に人間の存在と歴史的状況を取り扱う以上、常に崩壊と建設の弁証法の中におかれる。

ことに現代においては、一方においては、核、遺伝子科学、脳科学などのような人間存在の根底を脅かすほどに発達した科学技術の進歩が、ただ単にそれに携わる者の道徳性の問題としてではなく、そのものの発達の方向全体の問題として、歴史学的、また社会学的問題も含めた全体的な新しい倫理学の形成を緊急の事柄として要請する。

また、他方においては、近代以降、社会学的レヴェルにおいてだけではなく、精神的存在論的レヴェルにおいても、もっと徹底して進展してきた世俗化や社会変動とともに、それまで倫理学的前提としておかれていた形而上学が空洞化し、倫理学はそれを統一する根本概念を失い、倫理学的建設の不可能性に直面せざるを得なくなっている。

つまり、倫理学の構造的な崩壊に伴って、現代人は、それぞれの倫理的諸問題に対して、未来に対する不透明感の中で自己の決断の根拠をなくしたまま、その時々の恣意的決断と責任だけが問われるか、ニヒリズムの嵐に飲み込まれるかのいずれかでしかなくなっているのである。

そして、この存在論的危機意識がまた新しい倫理学の建設を要請するのである。

 20世紀の初めに、E.トレルチ(E.Troeltsch)は倫理学を「人間の現存在の究極的目標と目的についての学問である。」(1)と規定したが、問題は、歴史的状況の中での現存在の諸々の倫理的根本概念をいかに再編成するかということであり、問題が複雑になればなるほど要求されるゆっくりとした思想的熟慮を、単なる倫理的普遍妥当性に向けてではなく、根本的「綜合」に向けて行うことができるかどうかである。

 しかし、この課題は、人間的な諸目的がそれぞれ自己目的として登場している現代社会においては、かっての倫理的普遍妥当性を支えてきた自然法の概念や形而上学的超越概念が、初めは外的な現象として、やがて内的精神的な現象として急速に崩壊してきたが故に、決して簡単なことではない。

事柄は倫理学的課題だけではなく、宗教学、哲学、歴史学、社会学、自然科学の全領域にわたっている。

そして、それぞれの領域において特殊化されたものだけが論じられるか、せいぜい、のぞき穴から他の領域がのぞき見られるだけであったがゆえに、「綜合」に向けられた観察と分析のための基礎づけと共に新しい解放性が要求されている。

 本稿は、これらの課題を取り扱うための倫理学、とりわけキリスト教倫理学の基本問題についての考察である。