現代キリスト教倫理の基本問題
第1章 キリスト教倫理の構造第2節 キリスト教倫理の形成と超越(4)ドイツ敬虔主義と啓蒙主義および近代自然科学の客観的認識の主張の中で育ったカントは、ルソー(J.Rousseau)のヒューマニズムとの出会いによって、その偉大な天才的思考力を用いて人間の理性を認識論的に厳密に分析し、人間理性の先験性(ア・プリオリ)に基づく倫理学を哲学の総体として形成した。 カントは、人間の道徳性の原理が人間の「人格性」に基づく「自律(自己立法−Autonomie)」にあることを明白にし、「善」なるものとしての人間の理性的意志に基づく倫理の根本原理として、「それが普遍的法則となることを、それによって汝が同時に欲しうるところのその格率(Maxime−主体的行為の原則)に従ってのみ行為せよ。」(12)という断言的命令法則を打ち出し、それぞれの主観的行為の大前提(格率−Maxime)と客観的普遍的法則との綜合を「人格」概念において試みたのである。 それは、カントが彼の哲学において、それまで西欧思想史の根本問題として横たわっていた超越と内在、主観と客観、個人と世界、特殊性と普遍性などの二律する概念を明瞭に区別すると同時に、そのことによって人格の実践理性の要請として両者を包み越える絶対的で永遠なる神に帰依して行くという人間の倫理的行為の静態的基礎づけを厳密におこなったことを意味している。 そして彼は、そこから意図的に倫理学を主観的意志のア・プリオリに必然的な諸規定の教説として提示し、彼以後の倫理学の方向を決定づけ、哲学的倫理学は、やがてシラー(J.C.von Schiller)やフィヒテ(J.G.Fichte)を経てヘーゲル(Hegel)に至るドイツ観念論の中で、それまで倫理学的前提とされてきた形而上学的超越を人間精神と自我、もしくは精神の弁証法的運動の中に解消し、歴史と実存の諸問題へと向かったのである。 また、ヘーゲルを批判したキルケゴール(S.Kierkegaard)に始まり現代に至る実存倫理学も、神の超越性が人間の真の実存の回復に不可欠の問題として問われるにせよ、実存の弁証法の中での「緊張」として内在的な人格機能として考えられていることから、その倫理学的構造はカントの批判哲学のG線上の延長であるように思われる。 カントの影響を受けたキリスト教神学者たちは、カントが、従来の形而上学的超越に基づく上からの倫理学とは全く異なる純粋実践理性のア・プリオリの要請としての超越(神)を見定めつつ自律的意志の倫理学を形成し、しかも、その倫理が不可避的に個人の外に立つ法授与者の理念に入って行くという、つまり、「為すべき当為(sollen)」の背後で善を命じる「法授与者」の存在へと目を向けざるを得ないという「倫理から宗教へ」向かう基本的倫理学構造を保持していたことから、倫理学の補完もしくは形而上学的保証としてキリスト教を位置づけ、神について語る代わりに人間の道徳性の完全な姿を神という言葉の下で模索した。 ここに至って、神学もまた、ヘルマン(W.Herrmann)の主観的神学やトレルチの歴史主義的神学のように内在論的神学の方向へと向かったのである。19世紀を代表する神学者の一人であるシュライエルマッハー(F.E.D.Schleiermacher)はカントの認識理性のア・プリオリに対して、「宗教感情」もしくは「宗教意識」を人間精神のア・プリオリとして捕らえ、宗教を形而上学から切り離し、人間の全体的な人格性の中心にあるものとして位置づけ、倫理学をその人間の行為の諸目的の普遍的客観的規定へと向かわせた。 従ってそこでは、倫理学は、行為の客観的価値を規定する国家、社会、法、芸術、科学、家族、宗教(教会)などの実質的目的へ向かう実質的価値の倫理学となり、キリスト教をそれらの実質的価値目的へと向かう「精神」の強化原理として理解することによる文化哲学となる。 そして、それによって彼は、キリスト教信仰の精神化を行ってしまったのである。 こうした内在論的神学におけるキリスト教倫理学の構造は、ある意味では、神がイエス・キリストの「受肉」において自らの超越性を放棄し、完全な内在において自己を啓示したというキリ スト教信仰の使信の必然的帰結であると同時に、世俗化していく社会変動の中で人間のすべての領域において形而上学的超越を否定して人間の行為と存在を理解可能な理性の限界内で思惟してきた近代知性の必然的結果であるとも言える。 こうした内在論的神学に対して、20世紀になって、バルト(K.Barth)に代表される弁証法神学者たちは、明瞭に「否」を告げ、再び、「神の言葉の啓示」に基づいて、つまり、倫理を「神の戒め」から、もちろん決定論的にではなく弁証法的にではあるが、再構築しようとした。 そこでキリスト教倫理は、「神の行動によって規定された人間の行動についての学問」(E.Brunner)となり、プロテスタント神学においては、あの宗教改革の原理であった福音理解に基づく人間の現存在の倫理的要請という観点からキリスト教倫理学の再構築が試みられてきたのである。 しかし、超越概念が意味を失う世俗化された社会の中では、超越概念に基づく教義学的教説と現存在を全くの現存在の側から認識しようとすることとの分離が明瞭となり、ボンヘッファー(D.Bonhoeffer)が提示したような「そもそもキリスト教倫理は存在しうるのか」(13)といった根本的な問い直しが起こってきたのである。 従って、キリスト教倫理学の基本問題は、超越論的倫理学と内在論的倫理学をいかに綜合するかということにかかっている。この問いは、さしあたり、キリスト教の使信と倫理的規範の関係、広義には宗教と倫理との関係の問題として問われる。 |
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