現代キリスト教倫理の基本問題
第1章 キリスト教倫理の構造第1節 倫理の概念的命題(4)しかしながら、ソクラテスが「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなく、よりよく生きるということだ」(6)と語ったように、よりよい自己への超越が求められ、それが究極的な超越との関連の中で位置づけられていくことによって、倫理は必然的に国家(ポリス)的枠を超えて普遍妥当性をもつものとなり、哲学の実践(practice)としての倫理学が誕生したのである。 アリストテレスは、ギリシャ思想全体を、「不動の第一動因」としての超越を基にして、テオリア(理論学−自然学、数学、形而上学)とプラクシス(実践学−倫理学、政治学)とポイエーシス(制作学−弁証論、修辞学)に分類し、実践学としての倫理学を哲学の枠組みの中に位置づけ、この思想的伝統は近代のカント(I.Kant) に至るまで継続され、カントは認識論的にではあるが、哲学の対象を真偽の認識を行う純粋理性と善悪の識別をする実践理性と美醜の判断をする判断力の三つの精神的価値に置き、それを捉える人間の理性による批判哲学を形成した。 これらの倫理学の哲学的位置づけは、西洋精神史における「倫理」概念が、常に本質的にその哲学的超越概念と密接に関連し、その超越理解から自動的に導き出されてくる理性の実践的行為であることを意味している。 西洋倫理思想史における重要な概念としての自然法や卓越性、徳、良心、自由意志などの諸概念は、すべてこの関連の中に置かれている。 そして、そのことはまた、「綜合的」な倫理学の根本的課題がその超越理解とそこから導かれる理性の実践的行為としての「倫理」との関係にあることを意味している。人間の行為の倫理的動機には、理論的にも実践的にも形而上学的なものがあることは明瞭に認識されていなければならない。 この超越理解と倫理との関係の原理的な姿は現象界とイデア界を区別したプラトンの中に見いだせるが、元々、紀元前7世紀頃に、神話的表象で語られていた神々としての超越的存在に対しての哲学的反省が存在するもの起源や根本因を問う形で起こり、パルメニデスに代表されるような、経験世界を離れた抽象的な超越者としての神(パルメニデスはそれを「存在」と呼んだ)、善にして最強、不動にして永遠の神という理念が語られてきていた。 プラトンはそれをイデア界における最高のイデアとしての善のイデアとして主張することによって現象界と明瞭に区別し、存在の究極的根拠を「存在するものの彼岸」に置いたのである。 そして、善のイデアを、存在の究極的原理として位置づけることによって、単に現象界のすべてを説明しただけではなく、存在、生成、認識の根拠として形而上学的超越概念の性格を明確にしたのである。 |
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