現代キリスト教倫理の基本問題
第3章 「神の前で、神と共にある、神なし」の倫理学第4節 「神の前」での認識「神の前」という概念は、われわれに倫理的決断におけるある種の形而上学の復権を要求する。ここでは、よく考え抜かれた形而上学を経験の次元に連れ戻すことが必要なのである。 人が倫理的決断をする場合、彼は単に彼の現実認識に基づく自己の決断の社会的適応性や相対的な批判的判断、あるいは現存在についての相対的認識を行うだけではなく、それが自己の認識に誠実であろうとすればするほど、意識的にであれ無意識的にであれ、またその意識に程度の差はあれ、なんらかの意味で絶対的他者、あるいは「永遠の汝」として想定された「真理」の前で、彼自身の状況判断に伴う自己省察や内省を繰り返すことによって、自己自身の現存在を再確認し、行為する。そして、その行為の実践が再び「彼の真理の前」での内省を要請すると言った意識の反復運動を行う。 神学的に言い換えれば、人間の倫理的決断は、それが自己と世界に対して誠実であろうとすればするほど、神とこの世の二重構造をもつのであり、たとえ明瞭に形而上学的超越が否定される場合においても、人間の行為の倫理的動機には、理論的にも実践的にも、何らかの形而上学的前提が不可欠である。 古代ギリシャ人はそのことを最もよく理解していたし、西欧倫理思想は、たとえ「神」という概念がどのように理解されたとしても、この前提の枠の中で展開されてきた。今日においても、人間に関する客観的な事実の観察と経験の分析に基づく個別科学は、たとえば有機生命体としての人間をサルの胎児の文化的に訓育された生物として規定することを可能にし、倫理学を生物学的な自己保存の衝動から基礎づけ、それを保存衝動と文化的訓育からの行為に関する実践的知識として規定するが、その観察と分析の対象となる客観的な事実と経験は、すでにある種の「解釈のフィルター」を通して得られた一つの認識にすぎず、「解釈」という理性の認識作業のない客観的な事実なるものは現存していない。解釈が認識を規定するのか、認識が解釈を規定するのかの問題は別にしても、認識と解釈は相関関係の中にある。そして、倫理学的解釈には、その思惟構造上、「何が善か」を決定するためには、何らかの形而上学的前提が不可欠なのである。そうでなければ、倫理的決断における善を支える確信とその決断の相対性への客観的視座の両方が失われて、人は行為と存在に至ることができないからである。人間の倫理的決断と行為は、実存の弁証法的反復運動の中にあり、いわば電子の振り子運動のような運動を繰り返し、現実と現実性の認識に至り、行為に至るのである。そして、その倫理的決断についての確証は、そこで想定された形而上学、もしくは真理が、どのような真理であるかに依存している。ここに、「真実の神か偶像か」の古くて新しい問題が再登場するのである。それ故、この決断と行為の間で起こる精神の反復運動が自己の「存在の深み」へと向かう時に、人は初めて自己自身を正当に認識するのである。このことを規定するのが、「神の前(Coram Deo)」の概念に他ならない。 かつて倫理学をそのような構造の枠の中に規定してきたものは、神話と形而上学であったが、倫理学はそこに自己の可能性と限界を持つのであり、宗教倫理学の主張は、すべてこの点にかかっているとも言える。M.ルターの場合、彼は、その神学的思索から導き出される結論として、彼の倫理的考察をすべて「神の前」という概念の中に置いた。その際、ルターが倫理的考察から彼の神学を形成したのではなく、彼の神学的考察の必然的帰結から倫理的考察をおこなったことが再認識されておかなければならない。 近代において、このルターの倫理思想を最も精鋭化し、最も深く考察したのは、ルター派教会が国教であるデンマークに生き、ヘーゲルに否を唱えたS.キルケゴールであるが、彼は「神の前での人間」を「単独者」として規定することによって、現代哲学と神学に多大な影響を与えた実存哲学を開始した最初の人となったのである。キルケゴール自身は、当時のデンマークのキリスト教会が真実のキリスト教の姿とは異なっていると指摘し、批判したし、確かに、彼の「単独者」の思想は「共同体」の概念が欠落していく傾向をもつが、ひとりの人間の実存を「神の前に立つ単独者」として認識することによって、人間が真実の人間としてあるような実存の形成を明瞭に差し示したのである(13)。 「単独者」は、沈黙のうちに、最も深い孤独の中で自己の魂と向き合う。そこで彼のそばに立つものはだれもいないし、彼を助けるものはだれもいない。彼はただ、神の前で、自由と責任を委託された者として、また罪ある者として、何も覆うもののない裸の人格として、立っているのである。だからこそ、「神の前に立つ単独者」は、自己の決断の瞬間に、最も主体的に責任を担うものとして、自己と世界を最も冷静に、客観的に認識するのである。キルケゴールは、この「神の前に立つ単独者」の倫理学を、形而上学的前提なしに営まれることによって人間の深い罪の現実性の前で座礁してしまう非宗教的倫理学と比較して、「新しい第二の倫理学」と呼んだ。人間はその知性と理性によってさえ、ファーストのように悪魔に魂を売り渡すこともできれば、責任回避のために群れたがるメダカの一匹となって「大衆」という抽象概念の中に逃げ込むこともできる。そのような人間は自己自身を認識することはできないし、絶えざる不確実性の不安と分裂の中に置かれるにすぎない。ただ委託された責任をひとりの裸の人間として担おうと決断する「神の前」での倫理学のみが、深い現実性の中で自己と世界を正しく認識することができるのである。 近代以降の、西欧倫理思想の中で、いわゆる一般倫理学と呼ばれる倫理学は、超越を内在化させ、歴史と状況の中に解消させることによって、「神の前」の認識を失った。認識は相対的となり、自然、歴史、文化、法、社会経済のそれぞれの領域で、個別で相対的な倫理的決断のみがなされるようになったが、それらは言葉の厳密な意味での「決断」ではなく、単に、相対的認識から導き出される論理的帰結にすぎない。「決断」は精神の「飛躍」であるが、論理的帰結はその「飛躍」を許さない。そして、論理的帰結のみに従って、精神的飛躍としての「決断」がなされないところからは何も新しいものは生み出されないのである。現代の閉塞状況はそこに起因する。「然り、または否」の明瞭な実存的決断を下すのは、「神の前」で自分の孤独な魂と向き合う「単独者」だけである。従って、倫理的決断をなすための現実認識は「神の前」でなされなければならないのである。 |
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