現代キリスト教倫理の基本問題
第3章 「神の前で、神と共にある、神なし」の倫理学第3節 「神と共に」あること存在の深みとしてのインマヌエル ー1ーキリストの十字架は、「神なし」の現実の只中におけるインマヌエル(神われらと共に)の逆説を、その深みにおいて差し示す。 イエスは、神に捨てられた絶望を、ほかでもない神自身に委ねる。それこそがまさにインマヌエルにほかならない。 このインマヌエルの事実は、ことに、人が何らかの倫理的決断をしようとする場合の、ある「存在の深み」からのその決断の根拠として機能する。 「根拠」は上にあるのではなく、深みにある。パウロ、アウグスティヌスを経てM.ルターに至る「信仰から生み出される善」という信仰義認論に基づく「善」の概念は、この「存在の深み」への信仰による知覚を意味している。 一般に、実存に至ろうとする人間の倫理的決断は、常に精神の反復運動の中に置かれている。 人が何らかの決断をする場合、彼は歴史的現存在として、歴史的現実の中での自己自身と彼を取り巻く世界との二重の認識に基づいて、その決断の社会状況的適応性や相対的批判的判断を行う。 その時の彼の判断の是非は、認識される自己自身と世界についてどれくらいの視野の広さと深さを持つことができるかという、彼の認識の範疇と認識能力に依存している。その精神的作業を行うのは理性である。 しかしその理性的判断の是非は、世界と自己の客観的観察と分析をデーターとして下されるとしても、結局のところ個人の認識能力に依存している。 そのために、多くの「客観的」といわれる諸学の議論は、最終的には、いかにその認識範疇を広げるかとか、認識能力を高めるかとかいうことに終始するのである。 そこでは、学問的信用性の問題は、個人の認識能力の問題にすり変わり、倫理的決断の是非は、その能力に基づいた恣意的なものとならざるを得なくなる。主観的意志が、それを決定するのである。 このことを明瞭に表現した人はI.カントであったが、カントはあまりに人間の理性的な主観的意志に信頼を寄せすぎていたために、この認識の構造次元を平面化してしまい、倫理的決断のための「超越」あるいは「深み」の次元の構造を明確にすることができなかったように思われる。 彼は、「信仰に場所をあけるために理性を犠牲にしなければならなかった」と語ったように、認識における「超越」の機能を、その認識範疇の一部分として位置づけていたきらいがある。 そのために人間の理性的意志に基づいて構築された彼の倫理学は、その後の非理性的歴史的現実に耐え得なかったし、結局、理性も信仰も、ともに分裂したものとしてしか位置づけることができなかったのである。 カント自身は、彼の『論理学講義』の「緒論(Handbuch)」で示しているように、「人間」をその全体性において理解することを明瞭に意識していたが、深淵な人間についての部分的な考察にもかかわらず、実際には統合された「全体としての人間」について語ることはなかったのであり、それは彼の認識論から導かれる必然的な結果ではないだろうか(10)。 |
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