現代キリスト教倫理の基本問題

現代キリスト教倫理の基本問題

ー序ー
第1章 キリスト教倫理の構造
 _第1節 倫理の概念的命題(1)(2)(3)(4)(5)
  _第2節 キリスト教倫理の形成と超越(1)(2)(3)(4)
第2章 倫理における超越としての神
 _第1節 宗教と倫理(1)(2)(3)(4)
 _第2節 現代の神学的神理解(1)(2)(3)
  _第3節 現代キリスト教倫理学の基本構造
第3章 「神の前で、神と共にある、神なし」の倫理学
_第1節 倫理的決断に至る現実認識における提題の意味(1)(2)
_第2節「神なし」の現実 世俗化の本質聖書における「神なし」のススメ(1)(2)世俗化と世俗主義
_第3節「神と共に」あること 「存在の深み」としてのインマヌエルー1ー ー2ー非汎神論的「神と共に」
_第4節 「神の前」での認識
小さなまとめと脚注

第3章 「神の前で、神と共にある、神なし」の倫理学

第2節 神なしの現実

世俗化と世俗主義

 F.ゴーガルテンは、「世俗化」と「世俗主義」を厳密に区別した(7)

彼は、進展していく世俗化を聖書の「成人性」の概念や「世界に対して責任を委託された神の息子」という概念で説明しようとした。

『ガラテヤの信徒への手紙』4章で述べられているように、人間は、もはや後見人が必要な子供ではなく、成人した息子となったのであり、世俗化は、その神の息子の「成人性」にほかならないと言うのである。そして、人間は、成人した神の息子として世界を正しく保持するようにと招かれていると言うのである。

彼は、世俗化をキリスト教信仰に基づく「成人した神の息子」の概念で積極的に評価し、むしろこれをさらに押し進めるべきだと主張する。

 彼のこの主張は、啓蒙主義以来の、神に依存しないで生きようとする人間の自立の精神の確立の神学的後づけとして意味をもつだろう。

しかし、彼のこの「成人性」の理解には、現代人を現状肯定的に成人した人間としてみなし、この現代人を世界の上に立って管理する者としてしまう悪しき人間中心主義的な精神的植民地主義の危険性が存在する。

彼が「成人した神の息子」としてみなしたのは、神と人間と自然(世界)を未分化のままに神話的表象に包んで崇拝していた自然宗教的環境から脱出して科学的合理精神を身につけている人間にほかならないが、それを「成人性」とみなすことには疑問が残るし、それが聖書が告知する人間の姿であるかどうかは厳密に問われなければならない。

また、人間が世界を管理する存在であるという主張は、自然と世界を自らの手で技術的に支配し、利用し、服従させようとする他の多くの西欧キリスト教思想家たちも犯してきた誤りの一つではあるが、人間は弱さと限界を抱えて生きなければならない生物として自然の一部にすぎないし、世界の上ではなく、世界の中で、世界と共に生きるものにほかならない。

 しかし、その問題は別にしても、F.ゴーガルテンは、成人した神の息子が、ちょうど放蕩息子が父を捨てて困窮に陥ったように、神を見失った姿を「世俗主義」と呼んで世俗化と区別した。「世俗主義」は世俗化の堕落であり、世界を自らの手で救おうとして、かえって人間を疎外し、隷属化する。

このような世俗主義は、近代における世俗化の誤った道である、と言うのである(8)

「神なし」を誤解し、神を見失った世俗主義は、彼が指摘するとおり、受肉した神の真実の内在性に基づく自立的存在の根拠を見失っているが故に、人間を徹底的にニヒリズムの深淵に落とし込んでしまう。

ニヒリズムは世俗主義の徹底した姿にほかならない。このニヒリズムは、存在の根拠を喪失させるが故に、絶えざる意味喪失を引き起こし、やがて、その意味喪失に疲れてしまい、すべてを絶えず断念しつつも、ついには手当りしだいのものを絶対化していくようになる。

ニヒリズムは、常に偶像礼拝へ傾斜していく。 F.ニーチェは、近代の「神なし」の自立した人間の姿を求めたにもかかわらず、神の真実の内在性を見失ったために、結局、「超人」と言う偶像礼拝に陥った。

彼の「超人」の思想は、時代の一般的気分を先鋭化し先取りしたものであったが故に、偶像礼拝の最も危険な思想的傾向を示し、「超人」ではありえない現実の人間の弱さと罪深さに対する差別と抑圧の因子を本質的にその中に含んでいる。

世俗主義に陥って、差別と殺戮を繰り返した20世紀初頭の歴史が、そのことを明瞭に示している。

そして、20世紀後半になって、ニヒリズムが生み出す刹那的な一時的気分によって、現代人の多くが、生の根本的空しさを覚えることなしに何一つ為し得ないという精神的な破滅的状態へと追い込まれている。

分裂と不安が、この時代を支配しているのである。ニヒリズムの克服は、人間にとって思想史上の最大の課題である。

 現代の代表的童話作家のM.エンデ(M.Ende)は、「永遠の概念」を失い、真実の存在の意味を失った世俗主義の姿を、『モモ』の中で「時間泥棒」に無意識のうちに時間を盗まれて、生きる喜びを失った人々の姿として、また、希望や幻をもって生きることが「虚無」に犯されて滅んでいく姿を『はてしなき物語』で描き出している(9)

 結局、世俗主義は、「人間の自立」という世俗化の中で、その自立的であろうとする人間の現存在を支える神の内在性を見失うことによって、世俗化そのものの根源を喪失し、人間のあらゆる活動分野において、統一のない、限りない虚無の現象化を示すものにほかならないのである。

この世俗主義の問題を克服するためには、神の内在性が、再び、さらに深い意味で回復されなければならないのではないだろうか。

つまり、「神なし」に生きる現実の深みで、「神と共に」あることの逆説的意味が再獲得されなければならないし、受肉したキリストの十字架は、まさにその逆説を差し示しているのである。