現代キリスト教倫理の基本問題

現代キリスト教倫理の基本問題

ー序ー
第1章 キリスト教倫理の構造
 _第1節 倫理の概念的命題(1)(2)(3)(4)(5)
  _第2節 キリスト教倫理の形成と超越(1)(2)(3)(4)
第2章 倫理における超越としての神
 _第1節 宗教と倫理(1)(2)(3)(4)
 _第2節 現代の神学的神理解(1)(2)(3)
  _第3節 現代キリスト教倫理学の基本構造
第3章 「神の前で、神と共にある、神なし」の倫理学
_第1節 倫理的決断に至る現実認識における提題の意味(1)(2)
_第2節「神なし」の現実 世俗化の本質聖書における「神なし」のススメ(1)(2)世俗化と世俗主義
_第3節「神と共に」あること 「存在の深み」としてのインマヌエルー1ー ー2ー非汎神論的「神と共に」
_第4節 「神の前」での認識
小さなまとめと脚注

第3章 「神の前で、神と共にある、神なし」の倫理学

第2節 神なしの現実

聖書における「神なし」のススメ(2)

 何よりもナザレのイエスは、神に信頼して生きることを示したのであり、依存して生きることを教えたのではなかった。

彼は、神と隣人を愛することにおいて、神を神とし、人間を人間とするところに、真実の人間の姿があることを教えた。

律法学者によって最大の戒めを問われたイエスは、旧約伝来のシェマーを挙げた(『マルコ』12:28−34、及び平行記事)。

それは、人が神を神とするところでこそ、人間を人間となし得るし、人間を人間とするところでのみ、人が真実の神を見い出し得ることを意味している。

イエスにおいて受肉した神は、「神であることを固執せず、自らその高みを放棄し、まったき人間となられた」(『フィリピの信徒への手紙』2:6−8)神であり、その信仰告白は、神が内在においてこそ自らを顕現するものであることを意味している。

「人間を人間とする」ところでは、神は、エレミヤの「新しい契約」で語られたように、あくまで、「隠れた神」であり、内在の神である。

そして、この神の受肉による内在性は、人間が、神を持ち出し、それを振り回すことを厳然と拒否し、謙遜さの中で自らの責任において自らを引受ていこうとする自立へと、人間自身を促すのである。

十字架上で「おまえが神なら、自らを救ってみよ」と罵られた時のイエスの沈黙による静かな拒絶は、そのような「自立の精神」の姿そのものにほかならない。自分の十字架を負って歩む者だけが、彼を支える見えない神の無限の愛の大きさを知ることができる。彼は、苦難の杯を飲むことが、全面的に自己の決断に基づくものであることを知っている。

 新約聖書のパウロと初代教会教父たちの信仰上の戦いの一つは、グノーシス主義の「魔術的世界理解」であった。

彼らは、その戦いにおいて、自己の理性の判断可能な領域に基づいて、それらを「愚かな作り話や空しい哲学(知識)」として認識することができたのである。

そして、新約聖書における終末論から導かれた倫理的勧告は、すべて、「自分の足で、揺るがぬ土台の上に立って生きること」を勧めるのである。パウロは、「人は、自らまいた種を、自ら刈り取らねばならない」(『ガラテヤの信徒への手紙』6:7−8)と述べる。

 こうした聖書が示す「人間の自立」への促しは、必然的に人間の依存的な状態や「魔術的なもの」への隷属を否定し、自立のための自己の理性的判断領域を拡大していく方向をたどることになる。

近代西欧社会は、そのことを、科学技術の発明と発見、市民社会の形成と言う社会構造の変革を通して、思いのほか急速なスピードで押し進めてきたのである。今日の驚くほどに発達した科学技術の認識と方法の背後には、この「自立の思想」が息吹いているのである。

人間の自立を求め、理性の自由な行使を主張した啓蒙主義は、本質的にはキリスト教思想の子であり、西欧近代社会以降における「世俗化」は、その意味でも、聖書的歩みの長い歴史的必然的過程であるといえる。聖書は、神の内在によって人間の自立を進めるのである。

 ただし、この受肉によって啓示された神の内在性、つまり、神の啓示の現在化を歴史における超越の内在性として認識するということは、歴史を人間の進歩の総計とみなしたり、「神なし」に進行する世俗化を人間的実存の何らかの到達点とみなすような浅はかな楽観主義を意味しない。

その意味では、F.ゴーガルテンが指摘したように、「世俗化」と「世俗主義」は厳密に区別されなければならない。