現代キリスト教倫理の基本問題
第1章 キリスト教倫理の構造第1節 倫理の概念的命題(2)こうした倫理観は仏教や儒教の受容の仕方にも明瞭に現れており、例えば、「君子論」として国家の在り方を問う儒教においても、どちらかと言えば、行為の結果の責任を問う「責任倫理」であるよりも個人の道徳における心情のあり方を問う「心情倫理」を説いた孟子は、人間が共同 生活の中で守らなければならないことを「人倫五常」として説き、「父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信(父と子の関係を可能にするのは親しみであり、君と家臣は義であり、夫婦はけじめであり、年長者との間は順序であり、友人関係は信頼である)」(4)と語って、この人間関係の不変の秩序を守ることによって、人がより良く生きることができることを示したが、それはただ日本的封建制の主従道徳として受容され、政治、経済といった共同領域における個人の道徳性の問題のみが問われることになったのである。 そして主従関係を中心にした人間関係における道徳性の主張が共同体の全体性のために利用されてきたのが日本社会における倫理構造の基本となっているのである。 従って、日本社会においては、快、不快を「ヨシ、アシ」とする素朴な道徳的感情から宗教的、政治思想的倫理思想と人間関係を整える道徳思想が重複する中で、もっぱら個人の道徳性の問題が問われてきたために、倫理的諸問題は自覚的に体系化されることはなかったのであり、普遍妥当的規範を体系化しようとしてきた西洋倫理思想とは構造的な相違をもっている。 しかし、こうした日本的倫理思想状況、つまり関係内における関係の学としての倫理学といった状況は、西洋哲学思想史の中におかれてきたキリスト教倫理学のあれこれの諸問題を考えるうえでも極めて重要である。 なぜなら、こうした日本的倫理思想状況の限界が認識された上で、その限界状況が社会構造の変化と共に倫理学の全体性の中で超越されていかなければならないと同時に、倫理は本質的に歴史に属する事柄であり、歴史的、社会的、状況的制約と深く結びついた事柄であることが認識されておかなければならないからである。 そして、人間の現存在は本質的に関係存在であり、それを問う倫理学は、たとえそれがどのような形式をもつものであれ、「関係の学」であり、より厳密に言えば、究極的目的に向けられた関係の学にほかならず、この関係を人間の究極的目的に向けてどのように位置づけるかを問うものだからである。 |
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