現代キリスト教倫理の基本問題
第2章 倫理における超越としての神第3節 現代キリスト教倫理学の基本構造われわれはこれまで、この小論において、倫理学の概念規定から始め、西欧キリスト教倫理思想の形成史とその結果としての形而上学的超越としての神の否定という現代的課題を概観してきたが、終末論的な意味も含めて、究極のことがらと究極以前のことがらを厳密に区別しつつ、現存在を現存在として認識して判断する哲学や自然科学を初めとするこの世の現実における人間の営みを、究極の前での、究極に至る究極以前のことがらとして位置づけるところに、キリスト教倫理学の可能性があることを指摘してきた。 それは、少し長くなるが、ボンヘッファーの言葉を借りれば、「僕たちは、この世の中で生きなければならないーたとえ神がいなくてもーということを認識することなしに、誠実であることはできない。しかも、僕たちがこのことを認識するのはまさに、神の前においてである。神御自身が僕たちを強いてそのことを認識させたもう。このように、僕たちが成人することによって、神の前における僕たちの状態を正しく認識するようになるのだ。神は、僕たちが神なしに生活を処理できる者として生きなければならないということを、僕たちに知らしめたもう。僕たちと共にいたもう神とは、僕たちを見捨てたもう神なのだ(マルコ15:34)。神という作業仮説なしに僕たちにこの世の生を営ませる神は、僕たちが絶えずその方の前に立っている神なのである。神の前で、神と共に、僕たちは神なしにいきる」(14)ような在り方を示す倫理学であるともいえるだろう。 「神の前で」、「神と共に」、「神なし」に生きる倫理学、それが超越と内在を「綜合」する現代のキリスト教倫理学の基本構造となるのではないだろうか。 ただし、この「神の前」という古典的なルター的表現について、ここでもう少し考察される必要があるだろう。 周知のようにルターは、哲学と神学を厳密に区別したが、哲学の全面的無効宣言をしたのでもなかったし、「律法と福音」における律法の役割についても、福音に至る重要性を認識していた。にもかかわらず、彼の倫理的考察は、すべて、この「神の前(coram Deo)」という概念で考察され、「人間の教えでは人間の義が示され教えられる。 すなわち、誰がどのようにして自分自身や人々の前に正しくあるかを教えている。しかし、自分自身や人々の前での義は、道徳的で市民的な義にすぎず、たとえそれがどんなにただしくすぐれていても、神の前には非難に値するものであるし、人間の心の内奥と心情を見たもう神の前には、人は道徳的に立ち得ない」(15)という。 ここでいう「前」とは、場所的空間や時間のことではなく、明らかに人間の自己認識と主体性のことである。 ボンヘッファーが言う「神の前」も、その意味での「神の前」にほかならない。 ボンヘッファーは、キリスト教倫理を「キリストにおける神の啓示の現実性が、その被造物の中に現在化すること」(16)と規定したが、神の啓示の現実性の前で、その現在化を神なしに考察することと言い替えてもよいかもしれない。 ここで初めて、福音理解に基づく人間の現存在の倫理的要請の考察が可能になるのである。 |
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