現代キリスト教倫理の基本問題

現代キリスト教倫理の基本問題

ー序ー
第1章 キリスト教倫理の構造
 _第1節 倫理の概念的命題(1)(2)(3)(4)(5)
  _第2節 キリスト教倫理の形成と超越(1)(2)(3)(4)
第2章 倫理における超越としての神
 _第1節 宗教と倫理(1)(2)(3)(4)
 _第2節 現代の神学的神理解(1)(2)(3)
  _第3節 現代キリスト教倫理学の基本構造
第3章 「神の前で、神と共にある、神なし」の倫理学
_第1節 倫理的決断に至る現実認識における提題の意味(1)(2)
_第2節「神なし」の現実 世俗化の本質聖書における「神なし」のススメ(1)(2)世俗化と世俗主義
_第3節「神と共に」あること 「存在の深み」としてのインマヌエルー1ー ー2ー非汎神論的「神と共に」
_第4節 「神の前」での認識
小さなまとめと脚注

第2章 倫理における超越としての神

第2節 現代の神学的神理解(6)(1)

 伝統的に、キリスト教神学は、「神」というものを、その超越性を表明するために古代ギリシャ哲学の用語を借用して、不変、不滅、不動といった否定言語概念で、あるいは、創造者、唯一、啓示、歴史、あがない主、イエス・キリストといった概念を通して理解しようとしてきた。

人々が「神」という言葉で伝統的に考えてきた「超越」は、現に存在するものの限界を超えるもの、超え出た根源的な存在の原理といったものに他ならなかった。

たとえ超越の内在が語られる場合も、そのような超越理解が前提されている。

しかし、西洋キリスト教思想史の初めから「神」理解の主流を占めてきた超越理解が、もはや現代の人間の存在の根本的不安といった危機的状況を克服しえないことが明瞭になった以上、それらの概念化された超越理解が真の超越を十分に捉えていなかったと言えるかもしれない。

従って、それらの人間の自己理解と世界理解の限界を補うような超越とは本質的に異なる聖書の「人間と歴史において生き生きと働く神」が問い直されなければならないのである。

 20世紀の初めに、徹底的な破壊をもたらす以外のなにものでもないような戦争や人間性そのものを滅ぼしつくすような科学技術の発達によって、歴史の現実として不和や不正や悲惨さといった人間の根本悪に直面せざるを得なかった人々は、人間の内的善も機械ジカケの神も、もはや信じることができなくなったが、それと同時に、歴史全体や人間に対する希望が存在するとしたら、その希望は人間と歴史を超えたところから、今、ここに到来するものでなければならないことに気がついたのである。

しかも、人間は自分の力でその経験世界を超えることができない存在である以上、この超越に関しては認識することができないので、もし超越を知ることができるとすれば、それは超越自身が自らを啓示する以外に方法はないことになる。

K.バルトが「神の言葉の啓示」に執着した理由はそこにある。彼はこの「神の言葉の啓示」に基づく神学の全体的変革のために膨大な質量に及ぶ「教義学」を著わした。

このバルトの主張を受けて、J.ユンゲルは、「神学的問いの対象としての神の存在は、思惟の前提ではなく、むしろ神の存在こそがいっさいの神学的問いに先んじていく」(7)と語り、神学的思惟における神の存在の「先行的性格(praevenienter Charakter)」を鮮明にしている。

この神学的思惟の前提としての神の存在の先行性は、言うまでもなく、神学そのものの全体的な構造を厳密に規定し、決定づける。

先に引用したブルトマンの「非神話化論」も、聖書の諸概念の「非宗教的解釈」を提唱し、形而上学的あるいは内面的に考えられた「神」という作業仮設なしに、非宗教的な「成人した世界」(8) におけるキリスト教と倫理の在り方をナチスの獄中で模索したボンヘッファーも、その基本的神学の構造は、バルトが主張した神の存在の先行的性格に基づく思惟前提としての啓示とその解釈の線上にあると言えるだろう。

もっとも、バルトとボンヘッファーとのキリスト教倫理学の構造には若干の相違があり、バルトは、「われわれから神へと通じる道はない。否定の道も、弁証法の道も、逆説の道もない。人間的な道の終わりに立っているであろう神は、既にそれだけの理由で、神ではないであろう」(9) と述べるに比して、ボンヘッファーは、「人間の神への道は無数に存在する。それ故、倫理もまた無数にある。しかし、神から人間への道は一つしかない」(10) と語るところに明白である。

バルトは神の啓示の絶対性に固執するが、ボンヘッファーは、ただ神の恵みとしての啓示の優位性を主張するのである。

しかし、いずれにしても、その思惟の根底には、絶対的に先行する神の自己存在の啓示が置かれていることは疑いえない。(11)

その意味で、恐らく、20世紀の神学は、たとえ20世紀末の現代の神学者によってバルトらの弁証法神学が批判されているにしても、「啓示神学」と呼ばれるかもしれない。

こうして、神学的前提としての神の啓示を明らかにするために、すでに無用のものと思われていたキリスト教教義学が神学の主流として再登場し、倫理学はその中で、すべてに先行する啓示の実存的解釈の具体的諸問題として取り扱われるようになったのである。