暖まるコミュニケーション
ー 対話による人格形成 ー (2)
九州ルーテル学院大学公開講座 「ウィメンズ・ライフロング・カレッジ」 1999年11月26日
3.コミュニケーションの前提
人間がどこまで真実にコミュニケーションできるのかというのは、哲学的には興味ある課題ですし、私たちは、たとえば「伝言ゲーム」というゲームで、受け取った情報を正確に伝えることの難しさを笑いの種にしたりもしますが、今日は、その前に、そもそも「コミュニケーション」とはいったい何なのか、を少し見ることから始めましょう。
「コミュニケーション」という言葉が意味することは多義的なものがあります。しかし、通常、英語の「communication」は、辞書では、伝達、通信、報道、連絡、交通などを表す言葉として用いられています。つまり、何らかのこちら側のものや情報を他のものに伝えたり、また、向こう側のものを受け取ったりする事柄をいうようです。
「伝達」や「報道」という言葉を聞きますと、私たちはこちらから向こう側への一方通行の情報の伝達を思い浮かべるかもしれませんが、この英語の「コミュニケーション(communication)」の元になったラテン語の派生語であるcommunicatioは、「聞き取ること」という意味を持つ言葉です。
つまり、「コミュニケーション」というのは、「語ること」と「聞くこと」、表現することと受け取ることが双方で行われることを言うようです。
ここから直ちに普遍化して言えることは、良いコミュニケーションをするためには、「正しく語ること(表現すること)」と「正しく聞くこと(受け取ること)」が重要になるということです。
これは、もちろん、当たり前のことですけれども、先ほど申しましたように、正しく表現することも正しく受け取ることも本当に難しいなぁ、と思います。コミュニケーションの手段として代表的なものは「言葉」でしょうが、長年、言葉を習得してきましても、なかなか正しく語る、ということはできません。早い話、たとえば言語学者や国語の先生が正しい言葉や日本語を使っているかどうかは、何とも言えないところがあるような気がします。
「言葉は生き物」と言われますように、言葉というのはそれを語る人と聞く人のそれぞれの状態によって全く異なった作用をするからでしょうね。語る人の知識の問題もあります。英語などは、その人の生まれた階級や知識で使われる言葉や用法がまるで変わります。
また、「正しく受け取る(聞く)」となると聞く方の感性や理解力の問題もあります。どんなに意を尽くして語っても、わかりやすく説明しても、きちんと理解してもらえないということをたびたび経験しますが、それは、たぶん、感性や意識の違いがあるからだろうと思います。
ある人が語ったことを、それなりにきちんと受け止めるためには、言語理解力以上に、それなりの感性もまた必要なのです。「夕日がきれいだねぇ」と語りかけても、それを美しいと思う感性がなければ、夕日に感動している心は伝わりません。
だからこそ、コミュニケーションには、時を共にする共時性とか感覚を共にする共感性とかが必要になるのです。そして、その人の持つ関係性こそが人間の豊かさと貧しさに呼応しているのですから、関係性をうまく保つための手段としてのコミュニケーションによって、人間は立ちもし倒れもします。
その意味では、豊かなコミュニケーションをするためには、「豊かな知識と鋭い感性」が必要とされます。そして、知識と感性は「学ぶ」ことによって、あるいは経験を深めていくことによって養われていくのですから、私たちは、豊かなコミュニケーションをするために、つまり、豊かに生きるために、「学ぶ」ことが必要なのです。
また、『論語』の中で、孔子が「学んで、ときにこれを習う」と言っていますように、学ぶことは「他から話を聞くこと」ですので、「学ぶ」ことそれ自体の中で、私たちはコミュニケーションの基本を習得していることにもなるのです。人間に学習が必要なのは、そのためなのです。
しかし、たとえば全く異なる言語を使う人どうしで、お互いに言葉が全く理解できない場合でも、コミュニケーションが可能であることを、私たちは経験的に知っています。外国語を学んだこともなければ住んだこともない人が、その外国語を話す人と何かを伝達しあったり、一緒に暮らすことさえ可能であることがあります。
もちろん、コミュニケーションの手段は言語だけではなく、身振りや手振り、表情や眼差しでも可能ですが、何も話さないし、何もしないのに、思いが伝わるというか、お互いが通じ合える感覚があります。
沈黙は、時として、最も雄弁なコミュニケーションではありますが、それ以上に、相手との共生感や一体感を感じることがあるのです。そして、それこそが、コミュニケーションの本質であり、神髄ではないかと思うのです。
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