人間の価値の発見

暖まるコミュニケーション

ー 対話による人格形成 ー (1)

九州ルーテル学院大学公開講座 「ウィメンズ・ライフロング・カレッジ」 1999年11月26日

1.人間はコミュニケーションによって生きる動物である。

 私たち人間は、この世に生をうけてから死に至るまで、誰かと、あるいは他の何かとコミュニケーションをとることによって生きている生物です。

人間は他の動植物と違って絶対的な保護を必要とする状態で誕生しますから、誕生するや否や、本能的に、親や他の誰かの保護を求めるしぐさをします。この「絶対的に保護を必要とする生物」と言うことが、本能的な無意識の自覚として現れ、そのしぐさが、人間が最初に取るコミュニケーションの方法だと言えます。

それは、「生への本能的不安」の現れですが、やがて成長していくに従って、その内面の成長に合わせて表情やしぐさが豊かになり、言葉を覚えはじめます。コミュニケーションが、より正確に、またより安易に行われるように本能的にコミュニケーション能力を発達させていくのです。

言葉をつかさどる脳細胞は後天的なものと言われますが、言葉の習得は人間の脳細胞に驚異的な刺激を与え、その成長を促進させます。

それ故、他の誰かとコミュニケーションしようとする意欲と、その手段、言葉や豊かな表情やしぐさの習得は、人間の生の鍵と言えるのです。また、死を直前にした時に人間が最後に必要とするのは、孤独に死を迎えることではなく、最後にコミュニケーションをとることができる相手が側にいてくれることだと言われています。

別の観点から言えば、人間は関係の中を生きる生物ですが、その関係のすべてはコミュニケーションによって成り立っていますし、人間の営みのすべてもまたコミュニケーションによって成立しているのですから、人間が人間として生きているということは、他の何かとの何らかのコミュニケーションをしているということに他ならないのです。

このように、人間が生きることとコミュニケーションをとることは不可分の関係にあるのですが、それだけにまた、私たちはコミュニケーションをとることの難しさも感じざるを得ないのです。ほんのささいな誤解が破滅や死を招くことを、私たちはたびたび経験いたします。

2.正しいコミュニケーションをとることは本当に難しい

 例えば私たちは、自分の感情や考えを正しく伝えることも、他の人の伝えようとすることを正しく聞き取ることも、本当に難しいと感じることがあります。

正確なコミュニケーションをするためには、自分の思いを正確に伝えるための技術や方法の習得も必要でしょうし、相手の伝えようとすることを聞き取るためには、それなりの前提の共有が必要となります。

たとえば今、私は日本語でお話していますが、私の日本語を理解するためには、みなさんも日本語が理解できる必要があるのです。私とみなさんがコミュニケーションできるのは、お互いが日本語を理解できるという前提を共有しているからです。

このコミュニケーションの前提を共有しているということが、相手との関係を保つ上では極めて重要な要素になっていますが、日常生活では、それを意識して生活しているわけではありませんから、あると思っていた共通の前提が壊れて、あるいは本当はなかったりして、とんでもないことになることが起こるわけです。

 大学で講議をいたしますと、こうした経験は日常茶飯事に起こってきまして、中学や高等学校で習う基礎知識はもっているという前提で講議をしますと、必ず、後で、「先生のお話は分かりますが、先生が使われる日本語が分かりません」と言って参ります。

「話は分かるが、使われている日本語が分からない」というのも変な話ですし、別に難しい日本語を使っているわけでも、専門用語を使っているわけでもないのですが、共通に理解するための基礎知識が欠落しているわけです。

たとえば、神話論について講議をしました時に、「日本の<こじき>ではイザナギとイザナミが...」と言いましたら、「先生、こじきというのは差別用語で、今はホ−ムレスと言います」と注意をしてくれました。私は一瞬、大笑いをしてしまいましたが、日本の神話が書かれている『古事記』という書物をしっていれば、こんな誤解は起きないわけです。

こんなのはまだ素直でかわいらしい方で、90分の講議をいたしますと、学生はその講議の内容を自分のレベルで考えますし、分からないところは飛ばして、分かったところだけで判断したり、一部分だけを強調して理解したりしますから、講議をする方もよほどの注意が必要になってきました。

 私は今、学生を例に出してお話していますが、それは別に学生を馬鹿にしてお話をしているのではなく、コミュニケーションをとるには共通の前提が必要であることを言いたいわけですが、その部分は飛ばして、「あの先生は講演で、学生には知識がないと言って、学生を馬鹿にした」となったりします。

これはやがて私のレッテルとして張られ、「うわさ」になり、「うわさを信じちゃいけないよ」と言いながらも、恐ろしい結果になったりします。

こうなりますと、もう講議をするどころではなくなって、お互いの人格の問題にさえなってしまいます。コミュニケーションをする共通の前提があると思っていると、実はないということは、おかしくもあり、悲しくもあります。

私自身もまた、彼らの使う日本語がさっぱり分からないという経験をしますので、最近の学生と私が日本語を共有してコミュニケーションが可能だというのは、実は幻想に過ぎないとさえ思うようになってしまいました。

しかし、コミュニケーションをするためには、なんらかの共有できる前提が不可欠ですし、コミュニケーションの難しさは、その共有する前提を築くことの難しさにあると言えます。

それは、後で少し触れたいと思いますが、人間関係の根本、あるいはもっと根源的に、人間が生きることの根本に関わる問題です。

しかし、コミュニケーションの難しさは、単にそれだけではなく、第一に、そもそも人間は自分の感情や思いを正しく表現できるのか、という問題にあります。そして第二に、そもそも人間は他のものが発する表現を、それが言葉であれ、表情やしぐさであれ、他のものによって表現されたものを、その通りに受け取ることができるのか、という問題にあるのです。