人間の価値の発見

愛することと信じること(その1)

カトリック・第9回熊本短期キリスト教講座 1996.10.25

1.序

 今回のこの講座の総合タイトルは「生きがいを探そう」ということだと伺っていますが、「生きがい」というのは、文字どおりの意味では、「生きている甲斐がある」、「生きていて良かったと思えること」だと思います。

そしてそれは、人生の目的とか、生きる意味とかと言い替えてもよいかと思います。しかし、そうなりますと、「生きがいを探す」ことは、本当に難しいことです。

学生たちがよく自分の進路のことで相談に来ますが、「生きがいのある仕事」を探す彼女たちの相談に、私はほとんど適切な答えをすることができないでいます。

生きている甲斐のある仕事をしたり、人生を送りたいと、誰でも願っていますが、私自身も、そううまくいかないのが現実です。

 北海道の池田町というところでは「生きがい焼」という陶器が作られています。町長さんの発案で、お年寄りたちが粘土をこねて茶碗や花瓶を作られ、それを「生きがい焼」と命名されて販売されているのです。

私はそこであまり形の良くない茶碗を1個買い求めて、長い間、愛用していましたが、ふとしたことで割れてしまいました。本当に残念なことだったのですが、このことは、通常私たちが感じる「生き甲斐」ということにも当てはまるような気がしました。

 私たちが普通、何か良いことや嬉しいことがあって、「生きている甲斐がある」、「生きていてよかった」と思えることも、それは一時的なことで、私の感覚では、あの茶碗のように、ふとしたことで、壊れてしまうようなことが多いような気がするのです。

 私たち人間の普段の生活と言うものは、普通に過ごすことができる時には気にもかけませんが、実際は、微妙なバランスの上に成り立っています。

細い紐の上を綱渡りしているようなもので、だれかが理解してくれているとか、愛され、大切にされていることがわかるとか、だれかを愛しているとか、未来に対して意志や希望を持っているとか、そういうものを支えにして、人生という綱の上をわったています。

そして、本当にふとしたことで、そのバランスがくずれてしまう時、私たちは、苦しみや悲しみを感じ、不幸のどん底に落ちてしまうように思えるのです。

そして、私自身の経験では、バランスうまくとって、さらに、「生きている喜び」、「生きがい」を感じる時よりも、綱から落ちかけたり、あるいは落ちてしまって、悲しみや悩みを抱えている時のほうが多いように思われるのです。

作家の林芙美子さんは、ご自分の人生を振り返って、「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」という有名な言葉を残されましたが、私も、人生は「苦しきことのみ多かりき」のように思えるのです。

 そして、本当の意味での「生きがい」というのは、悲しみや悩みがなくて、大体何もかもがうまくいっていることの中よりも、むしろ、問題を抱え、悩みや悲しみに翻弄され、時々「疲れたなぁ」と思わざるをえないようなことの中にこそあるのではないかと思っています。

 今日はそのことを少しお話しできればと思っていますが、しかし、それにしても、一見、平和で、安全で、豊かに見えるこの日本の社会の中で、「生きがい」といいますか、「生きている喜び」、「生きていて良かったなぁ」思えることを探すこと、これが本当に難しいということは、不思議な気がします。

戦後、私たちの国は、敗戦のあの悲惨な貧困と悲しみを何とか克服し、豊かな生活を夢見て懸命にがんばってきました。

生活が豊になれば、「生きていてよかったなぁ」と思えることもたくさんあるような気がしていたのです。

そして、経済発展のためには、公害を初めとする多くの犠牲も生んできました。みんなががまんをし、そして、少しゆとりが生まれてきた時に、しかしふと、気づいたら何もない。何のために苦労したのか分からなくなっている。なにかしら、諦めと空しさに包まれている。今、この国に生きている私たちは、そんな気分に支配されています。

 衆議院の選挙がこの前ありましたが、ある政党のTVコマーシャルで、二人の幼稚園児ぐらいの子供が出てきて、「これから、大学まで行って、そしてOLか何かになって、どうせ人生そんなものよねぇ」と遊びながら話しているシーンがありました。

時代の空気を良く表わしていると思いました。しかし、その選挙でも、私たちの国がこれからどうなるか、私たちの生活がどうなるか、政治家たちは、だれ一人差し示すことができませんでした。

国や社会だけでなく、私たちの個人の人生もそうです。若い時に、本当に苦労する。今の青年たちも、いろいろ言われますが、本当は、受験や就職難や競争の中でとても苦労しています。そして、苦労して苦労して、ようやくゆとりが生まれるころには、棺桶に片足を突っ込んで邪魔者あつかいにされる。

「私の人生は何だったんだ。」そんな悔しい思いをしなければならなくなってしまっています。

 もうだいぶ前のことですけれど、一人の老人がわずか10cmの深さのどぶ溝の中で溺れ死ぬという事件がありました。

この人は、もらえる年金もわずかでしたし、だんだん目減りもしてくる。頼りになる身寄りもない。体もだんだん動かなくなり、特に目が見えなくなってきていました。

散歩の途中か何かだったと思われますが、溝の中に転んで、そしてそのまま溺れ死なれたのです。首を上げさえすれば助かったのですが、それをする気力がありませんでした。

あとでこの人の遺品の中から一冊の黒い手帳が見つかり、そこに「つまらない、つまらない」と書き綴ってありました。

それを見つけました時に、「この人の人生は、一体何だったんだ」と、たいへん大きな衝撃を受けました。

年をとって老いていくことには老いていくことの意味があると思いますが、それが見つからない。もっと根本的には、生きることの意味そのものが見い出せない。そして、この人が最後に見たものが、汚いドブの泥と水であったことは、本当に悲しいことだと考えさせられました。

 最近また、イジメや何かで、子供たちの自殺が増えていますけれど、その遺書とか書き残したものを見ますと、そこにあるのは、生きることに対する深い絶望です。

かって、デンマークの哲学者キルケゴールは、「絶望は死に至る病だ」と語りましたが、ちょっとしたことでイジメられ、だれからも理解されず、ひとりぽっちになって、絶望し、そして、本当に死に至っているのです。

 なぜ、こんなことになってしまったのでしょう。なぜ、私たちは、少し豊かになって、そしてかえって生きることの意味、生きがいを失ってしまったのでしょう。私自身も、毎日の生活の中で、本当にいろいろなことが重なりますので、考えさせられています。