愛することと信じること(3)
カトリック・第9回熊本短期キリスト教講座 1996.10.25
(2)人間の生の本質としての虚無
私の学校で毎日行われていますチャペルの礼拝で、ある先生から聞いた話しですが、ある母親と娘がこういう会話をしました。娘が母親に尋ねます。
「お母様、私はどんな一生を送ればよいでしょうか。」
母親が答えます。「あなたは良く勉強をし、良い学校に入り、良い子になってくださいね。」
娘は言います。「はい、分かりました。私は良い学校で良い子になります。それからどうするのですか。」母親は答えて、「あなたは良い大学にいき、よいおとなになってください。」
「分かりました。それからどうするのですか。」
「それからあなたは、良い会社で働き、良い仕事をしてください。」
「はい、そうします。でもそれからどうするのですか。」
「良い人を見つけ、良い家庭を作り、良い子供を育てるのです。」
「それから?」
「それから...」
母親は、それからの人生について答えることができませんでした。それから人は老いて死ぬだけだからです。
人間は、自分の力では、死という限界を超えることができないのです。人は死をもって、その人生を終わります。死はすべてを無にし、ちりに帰します。まことに「ちりから生まれたものはちりに帰る」のです。だから、この限界の中でしか生きられない人間の生には、いつも、虚無や空しさの影がつきまとうのです。
太宰治の小説の中に『トカトントン』というのがあります。戦争で死というものをいやほど見てきた人間が、戦後を懸命に生きようとする姿を描いたものですが、主人公は、何かを一生懸命しようとする時、ふと、「トカトントン」という音を聞くのです。
そうすると、もう何もかもが空しくなって、無駄に思えて、やろうとした意欲が急に萎えていきます。恋をしても、仕事に取り組もうとしても、誰かと話しをしている時も、将来のことを感がえている時も、「トカトントン」という音が聞こえてきます。
「トカトントン」は、「空しさ」、「無」の響なのです。そしてそれは、私たちの人生、生活のあちこちで響いています。限界を抱えている人間が生きることにつきまとっています。
旧約聖書の中の『コヘレトの言葉(伝道の書)』は、「なんという空しさ、なんという空しさ。すべては空しい。(空の空、一切は空である。人が日の下で労することに、なんの益があるか。)」という有名な言葉で始まっています。空しさと絶望感は、人が生きている限りぴったりとつきまとっています。
そして、通常、私たちは、この生きることの空しさを、何かで誤魔化しながら生きています。
フランスが生んだ17世紀の大天才パスカルは、今から300年以上も前に、それを「気晴し」と呼びましたが、今の時代は、この「気晴し」で満ちています。
パスカルは賭け事に熱中する時期を過ごしたようですが、私も学生たちとコンパと称する飲み会に行ったり、カラオケに行ったりしますし、「気晴し」ばかりで生きてるなぁ、と思う時がかなりありますが、どんなに遊んでも、楽しい時を過ごしても、あるいは、どんなに仕事に没頭したとしても、虚無感や空しさから逃れることができないのです。
そして、私たちが本当に深いところで、「生きる意味」や「生きがい」というものを見つけるためには、私たちが抱えています空しさや絶望、みじめさや悲惨さと真正面から向き合い、これを克服していくことが大切なことではないかと思うのです。
3.虚無と絶望を真実に克服するもの
私はここで、自分が絶望的な空しさに襲われたときに自分を翻らせるような力、これを「希望」と呼んでいるのですが、これについて少しお話ししたいと思います。
「希望」というのは、何か自分の手持ちの物の延長にあるような「期待」とは全然違うものです。
私たちは普通、今の状況や状態の中で、「ああなったらいいなぁ」とか「こうなったらいいなぁ」とかいうふうに思いますし、状況が悪くなればなるほどそういう思いが強くなり、それを「希望」と錯覚してしまいます。
たとえば、病気で病院の堅いベッドに寝ているとします。その時、今横たわっているベッドがもう少し寝心地の良いものにならないかなぁ、とか痛みが取れないかなぁとか、あるいは、早く病気が治らないかなぁと願います。
これは、本当に切実な「期待」ではあるのですが、「希望」ではないのです。「希望」というのは、堅いベッド、取れない痛み、治らない病気、こういうものを、言ってみれば自分で背負いながらなお自分の足を一歩前に出していくような力のことです。
だから、期待は裏切られることが多いのですが、希望は失望には終わらないのです。今の自分自身や自分の環境を丸ごと自分で抱えて生きていこうとすること、これを「希望」と呼んでいます。
人間は誰でも限界を抱えて生きています。人間の究極的な限界は、先ほど述べましたような「死」でしょう。それ以外にも、たとえば、「がんばれ、がんばれ」と言われても、どうにもがんばりようのないものを抱えています。
私は以前、ある外科手術を受けたことがあるのですが、その時、お見舞いにきてくださった方から、「がんばって下さい、がんばって下さい」と激励されたのですが、麻酔でぼーとなった頭で、「がんばれ、がんばれって、いったい何をがんばったらいいのだろう」と思ったことがあります。
がんばろうにも、ただ麻酔をかけられて眠るだけですから、がんばりようがないのです。努力してできることもあるのですが、どんなに努力してもできないこともある。それが人間です。
だから、問題は、何かを一所懸命努力することも大切かもしれませんが、それ以上に、どうすることもできない自分や自分の置かれている状況、そういうものを受け止めて、そこから生きていこうとすることでしょう。
ですから、「希望」というのは、「これで生きていこう」という決断によって生まれてくるものとも言えるかもしれません。そして、そのとき、初めて、私たちは「生きていくことができる喜び」、つまり、「生き甲斐」というのを感じることができるのではないかと思っています。
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