人間の価値の発見

愛することと信じること(2)

カトリック・第9回熊本短期キリスト教講座 1996.10.25

2.絶望と虚無の原因

(1)社会的・歴史的問題

 なぜ、私たちは、生きていてよかったと思えるようなこと、生きる意味や生きがいを見い出だせなくなってしまったのか。なぜ、子供たちは簡単に自殺するのか。これは何も日本だけのことではなく、実は世界的な規模で、一つの雰囲気として起こっていることですので、いろいろな角度から分析がされています。

世界の多くの人が、実は心の奥そこで、「つまらない」と感じているのですが、一つにはそれは、現代という時代と社会の在り方の問題があるように思われます。

 19世紀から20世紀、そして21世紀へと続いて行くのですが、私たちの世界は、全体的に、急速に利益社会の色合いを濃くしてきました。つまり、すべてのことを自分にとって損か得かの利益だけを基準にして判断したり行動したりすることが極端になってきているのです。しかもその利益も、いま目の前の明らかに見える利益だけを追い求めるようになったのです。

私は、普段、学校に関係していますので、そのいくつかの例を上げますと、学校に行くのも、勉強するにしても、勉強したり、学問を追求したりすることの本来の意味からではなくて、たとえば、この学校に行けばこういう資格がとれるとか、この勉強をすれば、これに役立つとか、教師も学生もそういうことを基準にして考え、判断しています。親たちもそうです。

そうなりますと、英語や数学を何のために勉強するのかよく分からなくなるのです。ある中学生がこう言いました。「先生、ぼくは一生日本の中で生きます。外国にいく可能性はありません。それなのに、なぜ、英語を勉強させられるのですか。先生、足し算と引き算、掛け算と割り算ぐらいできれば生きていけるでしょう。なぜ、xとかYとか、二次関数とかサイン、コサイン、とか勉強するのですか。しても役にたちません。」

 皆さんだったら、何と答えますか。自分の得にならないのですし、何のために勉強するのかわからないのですから、やる気も何も起きるわけがありません。それでもさせられるものですから、ふてくされるかあきらめるしかないのです。

 また、私たちは、自分にとって損だと思えることは、一切しようとしなくなりました。高等学校でしたら、受験に必要な科目以外には勉強しようとしません。

人間関係も、非常に合理的に割り切って、得になる人とだけつきあおうとします。物事の善し悪しも損得で考えています。たとえばこの私の話しにしても、皆さんに何か得になることをお話しすれば、今日の話しは良かったとなりますし、あまり役にたたない話しですと、つまらなかったとなるかと思います。

利益というのは、プラス・マイナスの数字ではっきり表わされますから、学生たちは、一生懸命自分の頭で考えて、何か一つでも本当の意味で自分のものにしていくことよりも、結果としての成績の数字をたいへん気にします。ですから、考えることよりも丸暗記が得意になります。

 こうした例は、本当に数挙にいとまがありませんけれど、人生のパートナーを決める結婚でさえ、損か得かで考えてしまいます。まして、キリスト教会となりますと、日曜日も朝から出席させられ、わけのわからない話しはじっと忍耐して聞かなければならないし、バザーだ何だと余計な仕事はさせられる。そして、献金はとられるで、大体において損ばかりですから、喜んで行くということはなくなります。

 何が本当に自分にとって益なのか、という深くて難しい問題は別にしまして、いま目に見える益だけを求めることに非常に熱心になり、何かができるようになるとか、お金持ちになるとか、何かに成功するとか、みんなから尊敬を集めるとか、そういうことだけで人生の価値を決めようとしますから、できないことがたくさんあるとか、貧しいとか、失敗するとか、いわゆる、一般的にマイナスの部分が増えてきますと、もう、生きる意味がないと思うようになってしまったのです。

 私は、個人的には、たとえば、オリンピックで金メダルを取ることにも価値があると思いますが、今日は一歩あるけたとか二歩あるけたとか、今日は駄目だったけれど、風をきもちよく感じたとか、そういうことに大きな価値があることを見つけたいな、と思っていますし、無駄や無意味だと思えること、できないことがたくさんあることに絶大な計り知れない意味があることを知っておきたいな、と思いますが、思うように成績が上がらないとか、ほかの人ができるのに自分ができないとかで悩んでいる学生に、「それは素晴しいことや、それは君が一つ一つゆっくり時間をかけていくということだから、すごいことだ」といっても、「それじゃぁ間に合いません。すぐできる方法はないですか」と怒られてしまいます。

「ぼちぼちでもいいんじゃない、損してもいいんじゃないかなァ」と思いますけど、みんなが利益を求めて走っていますから、本当に難しいものがあります。

 損か得かを考えて、損になることはしない。今の時代の全体的な雰囲気は、そういう気分に満ちています。

ところが、人間が生きていくということは、まことに皮肉なもので、私たちの人生は、プラスの得な良いことよりもマイナスの部分で織り成されていきます。

人間関係がうまくいかない、必要なお金もない、病気になる、年をとって体が動かなくなる、そして死んでいく、そんなことの繰り返しで、そうでなくても、本当に深く深く生きようとすればするほど、たとえば愛したり信じたりしようとすればするほど、多くの試練を受けますので、私たちの人生は文字どうり四苦八苦の人生となります。

私たちは、四苦八苦の中を、歯を食いしばって生きています。損ばかりして、何のために苦労しているのかわからなくなり、段々、疲れてきて、いやになり、あきらめ、絶望していくしかなくなるのです。それが、今の時代に特徴です。

 もう一つ、これは最近アメリカの社会学者たちが言っていることですけれど、今の時代は、すべてのことが一時的なものとなり、永遠とか変わらないものが失われて、あらゆることがその時だけのこととして、考えられるようになった、と言うのです。

20世紀は、人類が今だかって経験したことがないほど変化の激しい時代で、あらゆることが急速に変わっています。社会全体、国も、会社や家庭までも変化し、人間関係までもその場だけのものになりました。

この数年で何人の総理大臣が変わったでしょう。会社もバブル経済の崩壊で倒産していきました。家族や子供のためにと苦労し、やがて成長した子供から「くそババァ、くそじじぃ」と言われ、「亭主、元気で留守がいい」とか「粗大ゴミ」と言われる。確かで頼りにしていたものが、次の瞬間には変わっている。

社会の構造そのものがその時だけの一時的なものとなりましたので、その中で、人も、その時、その場だけをしのいでいく。そのような風潮が支配的になっているのです。

そして、このような一時的な社会の中では、「まぁ、適当にしておけばいい」という具合に、人は物事に深く関わろうとしなくなるのです。表面だけが取り繕われていきます。

 ところが、人間は、決して一人っきりでは生きることができない、本質的に何かと関係しないと生きていけない、関係の生物ですから、この関係が薄くなったり、なくなったりしますと、生きる意味そのものがなくなってしまうのです。

日本語で「幸せ(仕合わせ)」と言いますと、物事がうまく合わさっている状態のこと、つまり、いろいろな関係がうまくいっていることをいいますが、その関係が破綻してきているのです。

 今世紀の初めに、M.ブーバーという哲学者が、人間が持っています本質的な関係を分析して、人間は、「私ーあなた」という関係と「私ーそれ」という二つの関係を持っていると指摘しました。

彼は、私たち人間がもつ基本的な関係を「対話」という概念を中心にして考え、互いに呼びかけて答えあう「私ーあなた」という関係と、呼びかけても答えない「私ーそれ」という関係をもって、人間は生きていると言ったのです。

たとえば、今、私は皆さんにこうして話しかけていますが、この中には、私のはなしに「そうだ」とか「違う」とか思われている方がおられましたら、その方は、肯定的であっても否定的であっても、とにかく答えておられるのですから、その方と私は、今、「私ーあなた」という関係にあります。

そのうちだんだん私の話しに退屈されまして、私の声が小さくなってきて、ついに別の次元に突入されたとします。そうなりますと、その方にとっては、私は、心地よい眠りに誘う音楽か睡眠薬になり、つまりは「それ」になります。

 私の学校での授業は学生たちとの対話で進んでいきます。プラトンとかカントがどうのこうのといったややこしい話しが多いので、何が面白いのか分かりませんが、時々、学生たちが生き生きとした反応を示してくれる時があります。そんな時、今日の授業は良かった、学生たちと「私ーあなた」という関係だった。教育はこうでなくてはいかん、などと小さな自己満足をします。

ところが、授業が終わりまして、しばらくして、学生のトイレから「今日さぁ、小副川がさぁ」という声がするのです。授業中は「あなた」だったのに、トイレで、私はもう「それ」に変えられているのです。

 これは人間関係だけではなくて、物とも関係もそうです。愛用の○○とか、愛する人からプレゼントされた××とかは、「あなた」になるかもしれません。

 私はこの夏、8年間育てていました金魚を死なせてしまいました。私はその金魚に名前をつけていまして、夜中に対話できる唯一の相手でした。金魚は私にとっては「あなた」でした。ところが、わたしの不注意で死なせてしまった。呼びかけても、エサをあげても、もちろん答えてくれません。金魚はもう「それ」以外の何者でもないのです。死んでしまった金魚を庭の片隅に埋めます時に、人間が生き生きと生きているということは、この「あなた」をもっている時なのだ、と改めて考えさせられました。

 人間の幸せとはなんでしょうか。それは、「それ」をたくさんもっていることではなくて、たった一人でもいいから対話ができる「あなた」がいることではないでしょうか。

M.ブーバーは「神さま」のことを「永遠のあなた」と呼んでいますが、それは別にしても、誰かを愛すると、辛いこともありますが、私たちが生き生きするのは、「あなた」がいるということを実感できるからです。

 ところが、現代の私たちは、物事に深く関わることを避けて、「あなた」を失っています。本来は「あなた」なのに、「それ」に変えてしまいます。

 ある中学校で、一人の生徒を、その子はクラスメイトとして机を並べているにも関わらず、死んだものとしてお葬式をするという事件がありました。先生までもがその葬式ゴッコに加わりました。その子は生きているのに「それ」として扱われたのです。そして、その中学生は、そのことに耐え切れずに、自ら命を落としてしまいました。

 こうしたことは、私たちの日常でどこでも起こっています。学校、会社、家庭、私たちは、本来、人間が喜びや生きている幸せを感じるはずの「私ーあなた」という関係を失って、いつの間にか「私ーそれ」の関係にすり替えてしまっている。そこに私たちの不幸がある、といえるのではないでしょうか。

 確かなもの、変わらないもの、本当に頼りになるものを見失って、その時だけのものとなり、生きる意味を見い出せなくなって、深いところで絶望している。それが、私たちが生きている時代だと思います。

 暗い、悲観的な歴史観かもしれませんが、私は今の時代を、疲労と倦怠と諦めの時代と呼んでいます。

しかし、私たちが生きる意味を見い出せず、生きがいをなくしているのは、時代や社会の問題ばかりではありません。実は、虚無感や何をしても空しいという思いは、私たちが生きている限り、本質的につきまとうものです。「生きること」は、「空しさ」の繰り返しでもあります。生と無は一体です。