人間学は、現代社会と人間の未来にとって、人間存在の存亡をかけた学問である。しかも、現代における科学技術の急速な進展が、人間と人間の集団をそれぞれの部分的・個別的な視座から理解することではなく、全体的に理解することを要求し、総合的な人間学の形成を要求している。それなしに、もはや人間が生き延びることができなくなっているからである。
 諸科学と学問は、今後、人類の生存のために、あらゆる発見と発明を人間学に還元してみる必要があるし、人間学は、人間のすべての英知を結集した総合学となるであろう。

人間学論考

1.人間学の体系的基礎づけ

(1)出発点としての宿命づけられた存在

 人間は人間にとって常に開かれた謎として存在する。
 この謎を解くことは、あるいは、詩人ソポクレスが表わしたギリシャ悲劇の主人公オイディプス王のように自ら悲運を招くことになるかもしれない。誰も解けなかったスフィンクスの謎を、「それは人間だ」と答えることができたほどの自己意識をもったオイディプスは、自分が何者かを探究し、その結果、自分が父親を殺した人間であることを知り、破滅していかざるをえなかった。デルフォイのアポロ神殿に掲げられた「汝自身を知れ」という言葉に独自の意味を読み取り、イオニアの自然学者たちに対して問題提起をしたソクラテスが毒杯を仰がねばならなかったのは、単に、彼自身の中に、まったく新しい思考転換と同時にポリス的な道徳的保守性が混在していたからであると言う以上に、人間探究の悲劇的結末を示唆しているのかもしれない。旧約聖書のアダムとイブは、自らが裸であることを知り、これを恥じ、神から隠れ、エデンの園を追われる。生きることの喜びは隠れ、額に汗して働き、痛みをもって子を産まなければならない存在となる。人間が自ら「人間とは何か」を問い、人間を探究し、自己自身を知ろうとすることは、必ずしも人間自身にとって幸福な結果にはならないかもしれないのである。
 それにもかかわらず、人間は「人間とは何か」を問わざるを得ない存在なのである。なぜなら、人間は、常に、自己自身と自己の環境を開発しなければならない存在だからである。謎を解く道筋を得るためには、人は正しい問いを立てて出発しなければならないが、そのためには問いそのものを明瞭にしなければならない。その意味で、「人間とは何か」の問いの本質がここにあることが、始めに明瞭に認識されなければならない。つまり、「人間が自己とその環境を開発しなければならない存在である」ということこそが、「人間とは何か」の問いを立たせるのである。このことは人間についての体系的考察である人間学の出発においてきわめて重要な意味を持っている。
 つまり、地球上に生息してきた生物としての人間は、本質的に自分自身とその環境を開発することによって初めて存在しうる生物なのである。この開発を「文化(Culture)」と呼ぶとすれば、人間はその本質として文化的な存在にほかならない。ローマの雄弁家キケロは人間を「文化的動物」として定義したが、もともと「文化」を示す欧米語の語源となったラテン語の cultura は「耕作」や「土地の世話」を意味する言葉であり、人間をさす「ホモ(homo)」は「大地(humus)」という語根をもつ。アダム(人間)はアダマー(地)から来る。従って、文化はこの大地(人間)を耕すことであり、自己とその環境の開発を意味しているのである。
 人間が自己とその環境を開発することによって初めて存在しうる生物であるということは、現代人間論において、その人間論の出発点としてさらに深められた認識をもたらしている。
 たとえば、現代の生物学の研究成果を受け入れて総合的人間科学へと踏み出したアーノルド・ゲーレン(Arnold Gehlen)は、1940年に出版した『人間ーその本性と世界における人間の地位』で、人間を、その生理学欠陥を文化的行動によって補うべき存在として、「サルの胎児が文化的に訓育されたもの」と定義する。彼のこの定義は、単なる文化論者が人間の歴史を文化の進化の歴史として捕えるような皮相的なことを意味しているのではなく、生物としての人間の本質構造そのものを意味している。
 ゲーレンは、生物学者のルイス・ボルク(Louis Bolk)やアドルフ・ポルトマン(Adolf Portmann)らの生物学的研究成果から、人間が形態学的にサルの胎児の進化が停滞した「欠陥動物」であり、生理学的に正常化された早産児であり、生きていくための器質的手段を欠いているために、直立歩行、言語、技術的行動などの文化的手段を講じて、その欠陥の負担を軽減しなければならないように定められている、との結論を得たのである。
 そしてこのことは、人間の遺伝子の進化の過程の分析からも言われ得ることであり、人間の遺伝子が進化の過程で、環境との適合のために、単に自己自身の遺伝子構造を新しく変化させるだけではなく、適合する環境を作り出すようにプログラムされたことが明らかになってきている。テオドシウス・ドブザンスキー(Theodosius Dobzhansky)はそれを「遺伝子の適応の柔軟性」と呼んでいる。
 もっとも、ゲーレンの人間科学は、あらゆる形而上学的概念を排除しようとしたために、人間のすべての行動を生物学的自己保存の衝動として位置づけ、人間の精神性を全面的に否定する傾向をもってしまっている。
 人間が歴史的に考察を積み重ねてきた宗教的超越概念や形而上学的概念は、現代においては再考を迫られているとはいえ、これを全面的に無視することは人間の一つの面、特に人格と精神の問題を捕え損なうことになり、そのように自己保存の生物学的衝動としてのみ人間の実践的行為を捉えると、人間の行動の自由は見失われ、必然的に決定論(determinism)に陥ってしまうことになる。従ってそのことによって、人間が本質的に抱え、第二次世界大戦とその後に危機的なまでに顕著になった人間の深い罪性の問題を見過ごしてしまうことになる。決定論と自由の問題は、単に倫理学的問題であるという以上に、人間の本質構造の理解のための重要な問題として論じられなければならない課題であるが、その考察は別の機会に譲ることにする。
 しかし、ゲーレンが現代の生物学的研究成果から得た「訓育の生物であり、文化的創造の生物」という人間についての結論は、人間の本質構造として、人間学の出発点に置かれるべきテーゼであることに変わりはない。この点では、ゲーレンの定義は真に鋭いものを持っている。ただ、われわれは、人によって文化(culture)と文明(civilization)の概念的混乱があるために、ここではそれを避けるために、より厳密にそれを「自己とその環境の開発を宿命づけられた存在」と呼ぶことにしたいと思っている。
 結論的な言い方をすれば、人間は、生物として、自己とその環境の開発という課題を自己の本質的宿命として負わなければならない存在に他ならないのである。そしてこのことはまた、たとえば倫理的には、人間が自分の人生の課題を、その与えられた環境、時、場所、能力、などの諸条件を負いつつ、それらを自分自身で開発し、その人生を切り開いていかなければならないことからも言われ得ることである。「生きること」そのものは、人間にとっては物理的にも精神的にも最大の課題なのである。
 そして、その生存のために、自己とその環境の開発の明瞭な認識を求めて、存在の根源と目標を問う問いとして、人は、「人間とは何か」と問わざるを得ないのである。それ故、「人間とは、『人間とは何か』と問う生物である」というのは、真に当を得た人間論の出発点なのである。 
 従って、この問いは、当然のことながら、古代ギリシャの思想家たちを引き合いに出すまでもなく、人間が自らを「人間」として意識し始めた瞬間から始まり、人間の精神的営為の痕跡としての思想史の本底流として長い歴史過程をもっている。しかし、われわれがここで、この現代において、明瞭に認識しておかなければならないことは、この「人間とは何か」という古くて新しい問いが、常にあらゆる人間の営みの源泉と最終段階を問う問いとして立ち現われるということである。人間に関する諸科学の研究成果が、この問いをそのようなものとして明瞭に位置づけるからである。しかも、人間が自らを問うこの問いは、常に未決定の問題として、人間が人間である限り、また人間であろうとする限り、自己の根底と目標を問う根源的で永続的な問いとして発されるのである。自己とその環境の開発を宿命として負うということは、人間は「人間であると同時に人間であろうとする存在」に他ならないことを意味する。この問いが常に未決定の開かれた問いであるのは、人間の存在そのものが未決定の過程の中に置かれたものとしてしか存在しえないからである。そしてさらに、この問いが自己の根底と目標を内包しているのは、そう人間自身がそのような「存在と生成の過程」の中に置かれているからである。従って、この「人間とは何か」についての考察において、たとえば、生物学的にその分子構造の結合法則や遺伝子の進化の過程をたどるにせよ、哲学や心理学が通常行うように、人間の精神思想史の歴史的経緯をたどるにせよ、幼児期の感覚的自己意識からの発達段階をたどるにせよ、この問いは常に人間存在の基盤と目的の両方をその射程として持つのである。
 そして、この問いの射程の視座こそが、人間学の構造基盤となるのである。

(2)人間学の構造基盤

 われわれは今、人間学(die Anthropologie)はその基礎構造の基本的課題として人間存在の原理(das Prinzip)、つまり、人間を人間として成り立たせている原理とその存在の目的との両方を射程としてもつと述べた。ここから言えることは、それ故にこそ、人間学はその対象の性質上、諸科学の部分的な一つとは成りえないということである。そうでなければ、それはただ生物学か社会学、あるいは形而上学であるか、諸学の一部分となり、必要とされている人間の全体像の再建するに至らないし、人間が宿命として持つ自己とその環境の開発を正しく行うに至らず、滅亡の道を歩むだけだからである。人間学は諸科学の個々のものを統合し、人間の全体像から諸科学に明瞭な基盤と目標を提示するような総合科学に他ならない。
 このことを明瞭に認識し、元々は人間の自然的形態や生物学的側面を研究対象とする「人類学」を意味した "Anthropologie" というドイツ語を、そのような今日の人間学を意味するものとして最初に用いたのは、I.カント(Immanuel Kant)ではないかと思われる。
 カントは、1772ー73年の冬学期から "Anthropologie(人間学)" と題する講義を始め、その最終講義は1796年の春まで続き、1798年にそれらをまとめて、彼自身が刊行した最後の書物として出版した。彼はその「序文」で人間学を「生理学的見地におけるもの」と「実用的見地におけるもの」との二つにわけ、彼の人間学講義を、単に自然との必然的関係における生理学的人間学ではなく、自由な行為存在者としての人間の探究である実践的意図をもつ人間学として限定している。カントのこの人間学講義をカント哲学全体の中でどのように位置づけるのかは難しいところであるが、彼自身が自己限定した講義の内容は明らかに、彼の経験哲学に対応している。
 カントは先に『純粋理性批判』の第1版を1781年に、第2版を1787年に出版したが、その「超越論的方法論」において、人間の理性の立法としての哲学の体系的考察を行い、哲学全体を純粋哲学と経験哲学に分け、その経験哲学の中に経験的人間学を位置づけている。しかし、通常言われるように、1791年以降少なくとも5回に渡ってなされた『論理学講義』においては、人間学は哲学の総体として位置づけられている。彼は、「哲学のすべての問いは次の諸問題に帰着する」と述べて、次のような4項目の問いを提示している。

 これがカントの全哲学が人間学であるといわれるゆえんでもある。彼の『人間学講義』においても、内容的には、先述したように、彼の経験哲学に対応しているが、彼自身はこれを純粋哲学の中で考察する意図を持っていたと思われる。つまり、カント哲学全体の構造から言えば、カントの人間学は、『人間学講義』のような経験的人間学から出発し、批判哲学と実践哲学を含む全体的な人間学であると言えるのではないだろうか。その意味で、たとえカントが生きた18ー19世紀の西欧社会の中では今日ほどの人間に関する深刻な危機を感じることがなかったり、人間と世界に関する諸科学が十分に発達していなかったとはいえ、カントは"Anthropologie" で総合的な人間学を考えていたと言えるように思われるのである。
 しかし、われわれがここで求めているような総合的な人間学を最も明瞭な形で認識したのは、マックス・シェーラー(Max Sheler)である。
 マックス・シェーラーは、第一次世界大戦後の1928年、その死の数ヵ月前に自分の哲学の集約として、『宇宙における人間の地位』を刊行し、総合科学としての「人間学」の必要性を説き、人間学に新しい地平を開いた。彼はその中で、「われわれは相互に関係しあうことのない自然科学的人間学、哲学的人間学、神学的人間学を所有してはいる。しかしわれわれは人間に関する統一的理念を所有してはいないのである。人間の研究に携わる特殊科学は次第にその数を増しているが、それら諸科学はどんなに価値あるものであるにしても、人間の本質というものを解明するというよりは、むしろはるかに蔽い隠してしまう。・・・これまで人間が歴史のどの時代においても現代におけるほどに問題的となったことは、かってなかったと言えるのである」と述べて、幅広い基礎の上に立つ総合的な新しい「哲学的人間学」の必要性を語っている。同じ認識はその2年前に発表された『人間と歴史』という論文でも、「現代ほど人間の本質と起源に関する見解が曖昧で多様であった時代はない。・・・およそ一万年の歴史を通じて人間が自らにとって余すところなく完全に<疑問>となり、人間とは何かを人間が知らず、しかも自分がそれを知らないということを人間が知っている最初の時代である」と述べられている。
 もちろん、このシェーラーの人間と諸科学に関する状況認識は、第一次世界大戦後の西欧における思想界全体を包んだ「危機意識」を反映していると思われる。ダイナマイト、動力機械、飛行機など、人間と社会の理想のための近代発明が戦争によってかってないほどに人間に悲惨な状況をもたらした。19世紀を推進してきた人間の理想とロマン主義は打ち砕かれ、心ある人々は人間の罪の深さを認識せざるを得なかった。神学の世界でも、「危機神学」と呼ばれる神学運動が登場した。そこには「人間とは何か」が根本的に問い直さざるを得ない状況が出現していたのである。シェーラーは、こうした人間がおかれた状況に哲学的な反省をし、さらに深いところから、「今ほど人間が徹底的に問題となった時代はない」と語り、総合的な人間学として、新しい哲学的人間学(Philosophische Anthroporogie)の必要性を語ったのである。
 彼はそこで、人間の本性を動植物のような下位の諸存在の段階から段階的に再構築することによって人間の根本構造を明らかにし、生物学的研究成果と人間の自己意識に基づく他の動植物との関係から浮かび上がる生命存在としての人間、精神的・理性的存在としての人間、他の人間や社会との関連から浮かび上がる技術的存在としての人間、超越・形而上学もしくは宗教との関連から浮かび上がる人格的存在としての人間、などを論じ、最終的には、人間の形而上学的問題を明らかにしようと試みている。
 先述した生物学的人間論を基盤に総合科学としての人間学を提唱したA・ゲーレンの人間科学は、このシェーラーの哲学的人間学の批判的継承の一つであるが、現代人間論の多くは、シェーラーの提言を出発点にしている。シェーラーの提言は、人間学を再構築するための根本的提言であるからである。 
 しかし、シェーラーが『宇宙における人間の地位』を発表した後、第二次世界大戦のさらに悲惨な状況を経験しなければならなかった人間は、もっと徹底した絶望的な危機的状況に直面せざるを得なくなってしまった。一発で人類全体を滅亡させる物質的根拠となる核兵器や化学兵器の発明と使用、アウシュビッツや南京事件にみられる大量虐殺、人間の残虐性と罪深さ、人間の欲望の限りなさが最悪の姿で露呈した状況は、人間についての概念に徹底的な変革を要求したのである。人間の罪性の問題は、人間論の一部を構成する問題ではなく、全体にかかわる深刻な問題として取り扱われなければならないのである。
 さらに、戦後、政治と経済に直接的に振り回されて激変していく社会状況、貧困と人口増加、貧富の差の拡大、水俣病、オゾン層の破壊に代表されるような産業廃棄物による人間の健康と環境の破壊、エネルギー資源の問題など、ありとあらゆる問題が地球規模で知覚されるようになり、単に部分的な問題としてではなく、人類全体の存亡にかかわる問題として考えられなければならなくなったのである。厳しい倫理的課題が山のように立ち塞がっているだけではなく、人間は、もはや、その生き残りをかけた危機的いきづまりの状況に立たされているのである。いまや、人間が獲得した知識と技術が人間自身を滅亡させる重大な危機をはらんでしまったのである。
 加えて、近代以後の客観的観察を主体とする諸科学において、個々の学問は個々の領域において、各々が独立して、探索、分析、認識を深め、また広げてきた。核エネルギーや臓器移植、複製(クローン)人間の誕生の問題は言うまでもなく、遺伝子操作を含めた生物学や医学、エレクトロニクスと原子物理学などの自然科学は、かっての人間が想像を絶するほど進展してきた。その進歩と成果には真実に驚くべきものがあるが、諸科学はそれぞれの領域でその専門的認識と研究成果を広げつつあっても、否、それが進展すればするほど、その学的探究の基盤と明瞭な目的を失いつつある。それらを統合し、全体の方向を差し示すものは、残念ながら、まだ厳密に体系化されていない。その研究成果が、ついには人間にとって何を意味するかが問われないままに、いわば学的分裂状況が極めて深刻に進展しているのである。
 こうした状況を迎えた現代、人間の罪性と弱さ、そこからもたらされた危機的状況を徹底的な深みで認識し、あらゆる諸科学に究極的な基礎づけを与え、それと同時にそれらの諸科学に明確な目標を付与するような人間についての全体的で深い考察が必要不可欠なものになっている。状況が思考を決定するのか、思考が状況を導くのかの問題は別にしても、われわれはいまこそ、人間についての深い理解なしに、何事も正しく進展しないことを知らなければならないのである。
 従って、ここで考えている人間学は、次のような構造基盤を持つものとなるであろう。すなわち、人間の罪性を人間の本質的問題として捉え返す認識と、その罪によってもたらされる危機的状況の広い認識を底流に、1920年代にマックス・シェーラーが明瞭な意識を持って総合的な人間学としての「哲学的人間学」を提唱したことがらを受けて、人間がその存在の宿命として持つ自己とその環境の開発という課題から人間存在の根本的構造を明らかにし、それによって人間存在の基盤と究極の目的を明らかにすることを目指すものである。

(3)基盤としての罪もしくは欠如の認識

 シェーラーの総合的な「哲学的人間学」の提唱以後の欧米における人間学の共通した主要な関心は、近代的自己意識の再発見から導き出された人間の特性としての「自由」の概念である。それが進化論的人間学や生物学的人間論、あるいは哲学的・神学的人間論の主要な課題となるにはそれなりの理由がある。人間は他の地球上の他の生物と異なり、与えられた環境と宿命にたいして「自由」に関わりうる存在だからである。そしてこの自己意識に基づく自由において、その宿命的課題を担いうると考えられるからである。現代人間学はそれを、人間の「世界開放性(die Welt-Offenheit)」という概念や「創造的な主観性」、「間主観性」という概念で表わしている。そして、「罪」もしくは「欠如」の認識は、宗教的・神学的概念として自然科学的人間学から排除されるか、人間存在の根本構造の一部分としてだけ取り扱われる傾向にある。
 しかし、現代の総合的人間学の出発点が、人間の「自由」の認識からではなく、より根本的には、人間の残虐性や傲慢さへの深い反省からであることは極めて重要なことである。そもそも、人が「人間とは何か」と問う時、あるいは問わざるを得ない時、そこにあるのは何らかの形での「人間性の欠如」の感覚ではないだろうか。人は、周りの動植物や人間、世界を観察し、そこの何らかの人間的欠如を見い出した時、「では、一体人間とは何か」と問い、また問わざるを得ないのである。「人間とは何か」という問いそのものが、根本的に反省の問いなのである。そして、宗教的・神学的には「罪」と呼ばれるこの欠如感から人間の精神と行動のすべてが出発するのである。
 言い換えれば、人間は、その存在の根本構造に欠如感をもって存在しているものに他ならない。
 プラトンは『響宴』の中で、「人間とは何か」の問いに対して、人間は本質的に不完全な生物であり、不完全であるが故に常に完全を求め続けるものであると定義づけ、この完全を求める衝動を「エロース(愛)」と呼んだ。現代生物学は、先にA.ゲーレンの主張に関するところでも触れたように、人間が生物形態学的には「欠陥動物」であり、「負担免除」の行動をとるように定められた生物であることを明瞭に認識しているし、遺伝子生物学は人間の遺伝子そのものが不完全であるが故の成長のための柔軟性を持っていることを指摘する。通常、「成長」と呼ばれる生理学的過程は、その文化的・教育的側面や歴史的側面も含めて、この欠陥を補い、軽減し、それを生存のチャンスに変える欠陥補助の過程として理解される。さらに、こうした分析以前に、「完全」ということが何かを知らないにしても、あるいはシェーラーが指摘するように、「人間とは何かということを知らないということを知っているにすぎない」にしても、われわれは直観的に、その生のさまざまな場面で自分が何らかの欠陥を持った存在であることを自覚しているし、自覚せざるを得ない。人間がその生存のためにもつ本質的欲求、そこには関係の欲求れるし、それが倫理的に悪の形態をとることも多々あるが、その欲求の根本には、本質的欠如感があるからである。そして、この生物学的欠陥に由来する欠如感の故に、人は自己とその環境の開発を宿命として負わなければならないのである。人間は自己自身では存在しえない生物に他ならない。
 この本質的欠如感から生まれてくるものを、伝統的宗教的・神学的概念では、「罪」と呼んできた。「罪」は、もともと「的はずれ」を意味する関係概念であり、関係の破綻を意味するが、人間存在がその負っている宿命の故に、本質的に関係存在である以上、関係の破綻は、パウロが「罪の結果は死である」(『ローマの信徒への手紙』6章23節)と述べるように、存在の破綻を意味し、それは「負担免除」の行為が自己自身によっては正当になされないこと、存在の欠如感が埋められ得ない状態を示している。従って、「罪」は倫理的概念である以上に存在概念として理解されなければならないのである。人間は、本質的に、まことに罪深い存在なのである。そして、罪性の認識は、これらの認識であり、人が自己自身を絶えざる欠如感を持つ欠陥生物であり、自己とその環境の開発を宿命づけられた存在であることを謙虚に認識することを意味している。
 そして、これらの本質的欠如感の認識、罪性の認識、生物学的表現で言えば、負担免除の行為が正当に行われ得ないことの認識が、人間学の基盤的底流として存在しなければならない。なぜなら、この認識こそが人間学の究極の目標を提示することができるからである。つまり、いかにして人はその宿命の課題を負うことができるのか、いかにして「負担免除」の行為を正当になしうるのか、いかに欠如は補いうるのか、といった倫理的諸問題を含めた「実践的観点を持つ総合的な人間学」は、その謙遜な認識によって初めて可能となるのである。
 しかし、われわれは、それらの問題を直接的に取り扱う形而上学や神学的人間学に、一足飛びにジャンプすることは許されない。なぜなら、自己とその環境の開発という宿命的課題を負った人間が、その課題を果たすためにもつ諸関係が考察され、それらの考察によって、人間の根本構造が明らかにされなければならないからである。物事には段階があるのであり、形而上学と神学は、その段階において初めて意味を持つものであるし、ことに人間学においては、それらは人間が宿命の課題を果たそうとする諸関係に内在するものだからである。
 従って、ここで考えている人間学は、これらの基盤の上に次のような基本構造を持つものとならなければならない。

(4)人間学の基本構造

 人間が持つ自己とその環境の開発という宿命的課題を果たして存在に至るために、人間は諸関係においてのみ存在しうる。従って、人間学は、具体的には、その諸関係における人間存在の観察という方法を取ることによって、存在の根本構造を明瞭にするのである。それ故、人間が持つ諸関係の分類にしたがって、初めに、これまでの古典的人間論が行ってきたように自然的・生物学的人間学が考えられるであろう。ここでは、他の動植物との比較研究を初めとして、遺伝子構造を含めた身体機能の分析、自然環境との関連などが、純粋に科学的に分析されなければならない。第二に、文化的・社会学的・あるいは歴史的人間学が考察される。ここでは、民族学や比較文化論などの他の人間との比較研究、言語学、社会経済学、技術化され産業化された社会における人間などの社会的関連における人間学、歴史的存在としての人間、などが考えられなければならない。そして、それらに内在し、あるいは超越する「欠如補完」もしくは「負担免除」の正当な位置づけ、神学的表現を用いるなら「あがないと救済」を取り扱う超越論的・神学的人間学が考察されなければならない。
 ことに、第三の考察において、シェーラー以後に目覚ましく進展した現代人間学の多くが形而上学を古典的思考の遺物として否定する傾向をもっている。現代日本の哲学者梅本克己も、彼の人間論を論じた『人間論の系譜と今日の問題状況』のまとめで、「いま可能なことは、対象化によって伝統的な<哲学的人間学>につきまとう形而上学的聖域を可能な限り崩壊させ、その崩壊の極点を見極めることであり、そこで何が解答されていないかを発見することである」と述べている。ゲーレンのシェーラー批判もそこにある。それらの多くは、たとえばゲーレンのように人間の存在と行為を自己保存の衝動として理解したり、人間存在の「脱中心性」に基づく人間の欲求の創造行為として理解したりする。これらの非形而上学的方向は、思想史的に見れば、ヘーゲル哲学の影響を受けてあらゆる事柄を人間学に還元しようとしたフォイエルバッハの線上にあるといえるのかもしれない。
 しかし、生物学的衝動や欲求の原理だけでは、人間の宿命に基づく存在と行為を正当に位置づけることはできないし、その正当性を保証するものはどこにも見い出すことができないだろう。歴史に誤りは繰り返されるべきではなく、人間の根本悪を経験した時、人間の行為と存在に正当性を与え、それを保証するものが、人間の外から、人間と歴史を超えるところからしか与えられないということを、われわれは認識したはずである。そして、そこに形而上学と神学が果たすべき役割があるのである。つまり、それなしに、人間学が果たすべき諸科学の基礎づけと究極的目的の提示という課題は果たしえないのである。神学者W.パンネンベルグが現代の哲学的人間学の成果を受けて、その「人間存在の世界解放性」という概念を神学的に考察して「人間とは何か」を述べ、人間を語る時には神を語らざるを得ないと主張するのはそのためである。 言い換えれば、人間学は、形而上学や神学的人間学なしには、常に部分的なものとしてしか止まりえないのである。従って、もし、人類全体に指針を提示するような総合的な人間学を構築しようとするなら、ここで言う第三の考察は不可欠のものとなるはずである。
 人間学は、こうした基本構造を持つことによって、「実践的観点」を持ち、人間自身にその指針を提示することが可能となるのである。

参考文献
  1. A・ゲーレン,『人間ーその本性および世界における人間の地位』,平野具男訳,法政大学出版局,1985。
  2. T・Dobzhansky,The Biological Basis of Human Freedom,New York,Columbia Univ. Press,1956,参照。
  3. P・Hefner,The Human Factor,Fortress Press, Minneapolis,1993,p. 97-142。
      ここでヘフナーは、決定論と自由との関係を生物学的観点を含めた人間の存在構造の問題として論じている。
  4. A・ゲーレン,『人間学の探究』,亀井裕也,滝浦静雄他訳,紀伊国屋書店,1970,p. 23。
  5. I・カント,『人間学』,山下太郎・坂部恵訳,カント全集第14巻,理想社,1987,21ー22頁。
  6. I・カント,『純粋理性批判』下,原佑・湯本和男訳,カント全集第6巻,理想社,1987,121ー137頁。
  7. I・カント,『論理学・緒論』,門脇卓爾訳,カント全集第12巻『批判期論集』,理想社、1986,376ー377頁。
  8. M・シェーラー,『宇宙における人間の地位』,亀井裕・山本達・安西和博訳,シェーラー著作集第13巻,白水社,1982,16頁。
  9. M・シェーラー,『人間と歴史』,亀井裕・山本達・安西和博訳,シェーラー著作集第13巻,白水社,1982,128頁。
  10. W・パンネンベルク,『人間とは何かー神学の光で見た現代の人間学』,熊沢義宣・近藤勝彦訳,「現代キリスト教 思想叢書」第14巻,白水社,1975,347頁以下。
      パンネンベルグはここで、この現代人間学が共通して提示する「人間の世界開放性」を、さらに神学的に考察している。
  11. O・F・ボルノウ,「哲学的人間学とその方法的諸原理」,『現代の哲学的人間学』,藤田健治他訳,白水社,1976。
  12. プラトン,『響宴』,久保勉訳,岩波文庫,岩波書店,1952,参照。
  13. 梅本克己,『人間論の系譜と今日の問題状況』,岩波講座『哲学』第3巻,「人間の哲学」,岩波書店,1970。

<「人間学の方法論」と「人間としての出発点」とを執筆予定。>

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