教育論(1)

- 学校教育は何をめざすべきか -

 義務教育が施行され、学校教育制度が整えられていった時、その教育の目標は、圧倒的な驚異としてうつった西洋科学技術の修得に他ならなかった。文字どうり「和魂洋才」が唱えられ、横井湘南が「実学」を提唱したのは、その理にかなったことであった。
 そして、戦後、多くの日本人の精神を支配したのは、日本人の精神性の敗北感と占領軍として統治した戦勝国であるアメリカ合衆国の圧倒的な物質文明の力でり、広島と長崎に投下された原子爆弾に象徴されるような驚異的な先端科学技術の力である。「科学技術の黒船」が再来し、科学技術の必然性を痛感し、人々は、その科学技術の修得をもって、社会の復興に賭けたのである。戦後の教育の第一義的目的もまた、先進の科学技術の修得に他ならなかったのである。
 つまり、日本においては、学校はなによりも科学技術を修得する場所であり、そこでの学校教育が、「実際に役にたつものの修得」、つまり、「実学」としてその意義を位置づけられたのは、必然的結果であったのである。たとえば、今日でも、「大学を出てもなんの役にもたたない」という非難が大学教育に対して向けられる時、大学は「専門教育」という名目で「実際に役にたつ人材の育成」をうたい文句にすることによってその存立の意義を確立しようとする。資格の修得と「産学共同」は、その線上にあり、学校教育は、その「実学性」をもって社会に認知されてきたし、また、認知されようとするのである。今日の学生が大学における学問の目的をとわれた時、その誠実な答えの一つとして、資格の修得を揚げるのは、こうした社会と大学自身による学問の実学化の反映とも言えるのである。
 そして、そのように位置づけられた学校教育を終了することは、科学技術を身につけることであり、それはそのまま、社会における「階級」の上昇を意味した。「学校」は、階級上昇の正当な手段として位置づけられ、「学歴社会」なるものが形成され、圧倒的多数の低所得層の人々は、その期待を持って「学校」を受け入れ、その制度を整えようとしてきたのである。それは、日本の家族制度の問題とも密接に関連するが、子弟を学校に入学させることは、人間としての精神性の育成以上に、具体的な何らかの階級上昇が期待されたのである。そして、この事情は、今日でも、あまり変わっていない。
 しかし、社会全体がある程度安定すると同時に閉息状況を呈して、階級の移動の必要性も可能性も見られなくなると、階級上昇手段としての教育制度は意味をなさなくなり、加えて、情報技術の目覚ましい発達により、先端科学技術の修得が学校教育以外でも可能になると、これまで学校教育制度を支えてきた学校の社会的役割は終息せざるを得なくなってくる。つまり、日本においては、すでに、制度しての学校教育はその社会的位置を失っているのである。
 では、学校教育は何をなさなければならないのか。今日、私たちは、その原点に立ち返らなければならない時を迎えているのである。

<「現代教育論」以下、執筆予定。>

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