家庭の諸機能は、それぞれが別々に働くわけではなく、相互に密接に関連しながらひとつの「家庭」を形成していくのであるが、とりわけその第二の機能は家庭形成の目的と手段の両方にとって重要な機能として認識される。それは、人間の生命活動そのものの場としての機能である。
この機能の第一のものとして、家庭が、人間の生命活動の基本としての「食」の場そのものであることがあげられる。
「食べること」は、単に人間の生命活動の基本であるばかりでなく、古来から、人間の共同体形成の重要な要素として位置づけられてきた。どの民族、どの文化においても、人は、「共に食べること」によって、共同体への帰属意識と仲間意識を育んできた。それは、「食」と「共同」とが密接に、分離しがたく関連しているからである。「共に食べることによるコミュニケーションの成立」は、「食」の重要な要素の一つである。家族の形成そのものが「共同の食」をめぐる共同体の形成であるといっても過言ではなく、家庭はその「共同の食の場」そのものに他ならない。従って「共同の食の場」としての家庭の機能は、ここでは家庭における人間の存在論から出発したために、この機能を第二のものとしたに過ぎないが、本来、家庭の第一義的機能に属することである。
ところが、近代以降の産業社会の分業化に伴って、人間の生活の基本である「食」そのものも、それを行う「食の場」も分業化してしまい、「共同の食の場」の意義も変化せざるを得なくなってしまった。料理は食物の種類と材料に従って専門化し、家庭料理は特別の料理の一種となり、家庭を形成する家族のそれぞれの生活時間も生活領域も異なることによって、「家族が共同で食事をとること」そのものが困難なことになり、便利で簡単に栄養補給ができるファーストフードと外食産業が発達した。たとえば、1983年に日本学校健康会が実施した「家族の食事状況調査」によれば、小・中学生で毎日家族と共に朝食や夕食をとっているのは、全体の3割にしか過ぎないのである。この割り合いは、社会全体の分業化と専門化が進展し、生活領域が多様化し、さらに家庭の主婦が職業につくことがより増加してきた現在では、さらに減少していると思われる。食事によってもたらされた家族の共時性が失われてきているのである。「食事」の主たる目的は、もちろん、生存のための栄養補給であるが、食事を共にすることによって得られた人間の生存に根本的に必要不可欠である共同体への帰属意識と仲間意識は希薄化し、食事は単に生物学的生存のためのものとなり、そこで得られる共同性は、せいぜい同じテーブルに座っているということぐらいになってしまったのである。そしてそこでは、当然のことながら家族相互のコミュニケーションの絶対的な不足が起こり、夫婦、親子の関係の断絶が生じてくる。たとえ家族関係が表面的にはうまくいっているような場合でも、「共同で食事をとる場としての家庭」の機能が失われていると、それは、小此木啓吾の言う「ホテル家族」に過ぎず、表面上の関係がうまく取り繕われていても、その内面の深み、生きることの意味の深みにまで到達するコミュニケーションは困難になってしまう。そこでは、人間が基本的に生きている喜びを感じることができる「わたしーあなた」という人格関係が、いつの間にか、「わたしーそれ」といった物関係にすり替えられてしまいがちになるのである。そうなると、家庭の第二機能としての「共同の食事の場」の喪失は、単に、家族の集団性の危機や一体感の崩壊だけではなく、人間が知覚することができる「生きていることの喜び」や「生の充実感」そのものを失わせてしまうことになるのである。なぜなら、人間が感じる「生きていることの喜び」や「生の充実感」は、その人間が持つ「生命の交わり」の中にこそ在るからである。
従って、「共同の食事」の本質は、生理学的にも精神的にも、「生命の交わり」そのものに他ならない。一杯の水を分け合って飲み、一片のパンを分け合って食べ、互いの生活の経験や情報を分かち合うことによって、人間は「生命の交わり」を形成するのである。
それ故、この「生命の交わり」としての「共同の食事」が、豊かなものであるかどうかは、その「交わりの質」にかかっている。「共同の食事の豊かさ」は、その料理に使われている材料の質や料理のうまさ、個人的な生理学的満腹感などに依存しない。「豊かさ」の本質は、本来、物質的、物理的な事柄に在るのではなく、「他者と分かち合うことができる精神」の有り様にあるのであり、一片のパンを奪い合って食べなければならない状態を「貧しい」と言い、たとえ一片しかパンがなかったせよ、そのパンを分け合って食べている状態を「豊か」と言う。それ故、「共同の食事の豊かさ」は、「分かち合い」にこそあるのであり、この「分かち合う生命の交わり」において、恵みと平安と祝福を受け取る時に、人は「生きている喜び」を感じることができるのである。
ユダヤ教では、「食事を共にとり、食卓の交わりに加わること」は、常に、「来るべき未来における神の国での祝福を分かち合うこと」を意味し、また、伝統的にキリスト教が保持してきた「聖餐」は、この「分かち合う生命の交わりとしての共同の食事の豊かさ」を象徴的に示す出来事である。そこでは、祝福されたパンとぶどう酒が分け与えられ、キリストによる神の恵みと平安が告げられる。人々は、それぞれが抱える日々の労苦をたずさえ、後悔や悲しみ、悔しさややりきれなさ、あるいは喜びや楽しさを持って、聖卓の前に集う。そして、聖餐という共同の食事を通して祝福を受け取るのである。この「生命の交わり」にキリストの祝福が響くのである。
家庭における「生命の交わりとしての共同の食事」も、もちろんそこにはキリスト教の聖餐のような宗教的な意味は含まれないかも知れないが、本来的には、そのような機能を持っているのである。「交わりの質」は、食卓の交わりにおいて、そこに集う者に幸いと祝福が告げられる時、最高のものとなる。そして、この機能によって、「安心して自己のアイデンティティーを見い出す」という家庭の第一の機能も促されるのである。極端な表現かも知れないが、それこそが家族の一体感や統一感、家族の構成原理を生み出すとも言えるのである。
ことに、家族の形態が多様化した現代家族において、既婚女性の就労によるダブルインカム(二つの収入)の家族や離婚と再婚による家族の再編成、単身家族、養子等による血縁関係のない混成的家族、同棲家族、他人どうしの共同生活による擬似家族などが増加する傾向を持つ中で、小集団としての家族の統一性をどこで保持するかが家族の大きな問題となっている状況下では、「共同の食事」を取ることが物理的に困難になればなるほど、「生命の交わりとしての共同の食事」は、原理的で確実な一体感を提示するものとなる。
従って、たとえば、子どもの養育期が一応の終息をみ、子どもの外での社会生活が活発化し、夫の生活エネルギーのほとんどが仕事に費やされ、夜遅い帰宅や休日の仕事、長期の出張、妻の就業などが多く見られる中年期の家庭においても、「共同の食事」を取るための努力は、家庭の構成員として最低限払われなければならないし、それが物理的に困難な場合は、その家族に、それが不可能であることが了解されるべきである。
この物理的に食卓に同席することができないことが了解され、しかも「共同の食事」による家族の一体性を明瞭に示すものとして、今日ではすでに忘れられてしまっているが、日本の古い伝統的食卓作法の「陰膳(かげぜん)」というのがある。「陰膳」は、旅などに出た人の安全を祈って、留守宅で、あたかもその人がそこに同席しているように食膳を供える習慣である。亡くなった人の霊前に食事を備えるのも同じ発想であると思われるが、「陰膳」を据えることによって、「共同の食事」の精神性は見事に保持されている。つまり、そこには不在の了解があり、その了解を「陰膳」を据えることによって示す行為があり、そのことによって家族の共同性が保たれているのである。
こうした不在の了解は家族の共同性にとって必要不可欠であり、この了解によって、人は、その物理的有限性を越えることができるのである。そして、不在の了解によって、共同の食事の本質である食卓における生命の交わりを保持することができるのである。また、それによって家族間のコミュニケーションが、たとえ物理的に不可能であっても、可能となるのである。
そのようにして、「共同の食事の豊かな生命の交わり」が回復され、その家庭の第二の機能が促進される「場」こそ、「家庭」に他ならないのである。
家庭が持つ三番目の機能は、家庭が「教育の場」であるということである。
20世紀を代表する哲学者の一人であるM.シェーラー(Sheler)の影響を受け、現代生物学の研究成果を取り入れて総合的人間学を提唱するA.ゲーレン(Gehlen)によれば、人間は、形態学的にサルの胎児の進化が停滞した「欠陥動物」であり、生理学的に正常化された早産児であり、他の動物が生まれながらにして持っている器質的機能を欠いて誕生する生物に他ならない。他の動物が生まれてすぐに発揮することができる本性的器質的機能、例えば歩行といった生存のための機能を、人間は長い時間をかけて獲得していかなければならないし、単にその生存環境に適合するだけではなく、自分自身とその環境を自分で開拓していかなければならない宿命を負って存在している。それによって、人間は、他の動植物には見られないほどの広範囲の領域で生存が可能になったが、その生は、常に、生存のために義務づけられた開拓に脅かされ続けるのである。それ故、人間はその器質的欠陥の負担を軽減し、自己の環境を開発するために、直立歩行、言語、技術的行動などのいわゆる文化的手段を講じなければならず、その文化的手段の獲得のために、巨大な頭脳を用いた「教育」が必要不可欠なものとなるのである。つまり、人間とは「教育されたもの」に他ならず、「学習」によってのみ生存可能な生物に他ならないのである。
人間の生存のために「教育と学習」が不可欠な要素であるなら、その不可欠な要素としての「教育と学習」が、最初に行われるのが、たいていの場合、「家庭」である。たいていの場合というのは、「家庭」が親子の血縁関係によって形成されない場合があったり、人間としての最初の教育と学習が、第三者の保護施設で行われる場合があるからである。しかしその場合でも、たとえそれが里親や保護司による擬似家族であったとしても、教育と学習の場としての「家庭的状況」は作り出される必要がある。
人間は絶対的に保護を必要とする状態で誕生するが、その保護の状況における「家庭生活」は、その保護される人間の心身の発達に多大な影響を及ぼし、たとえどのように立派な設備の整った施設であったとしても、愛情ある人間との接触なしには、人間としての成長に欠如を生じる。特に人間の精神発達においては家庭的ホスピタリズムが不可欠であることは、今日の家族社会学と発達心理学で良く知られたことである。それ故、人間が人間としての豊かな成長を行うための必要条件として、家庭的ホスピタリズムに基づく愛にあふれた「家庭的状況」は、たとえそれがどのような環境に置かれているにせよ、常に形成されていかなければならないのである。今日の多くの社会福祉施設の苦慮が、その家庭的ホスピタリズムを生み出す「家庭的状況」をどのように形成するかにあることは、こうした人間の成長と発達への深い洞察から生じているのである。そして、この家庭的ホスピタリズムの重要な役割が、情緒や感情面も含めた「教育と学習の場」としての「家庭」なのである。
この「家庭」では、初めに、食べることや飲むこと、あるいは体温調整機能がうまく働かない人間にとっては不可欠な体温保持のために衣類を着ることことなどが、注意深く選択され学習される。そして、言語の習得とそれに伴う脳機能の変化がおこなわれるのも「家庭」に他ならない。人間の精神的発達を含めた諸機能の発達は、環境を含めた「教育と学習」と相関的であり、言語の習得に伴って行われる知識の習得とも相関的である。
通常、こうした学習は子どもの幼児期に、その後の生存のための必要な学習として行われるが、幼児期の体験がその潜在意識を形成するという精神分析の結果が真剣に受け止められるならば、「家庭」における幼児教育の重要性は、どんなに強調しても強調し過ぎということはない。幼児期にこそ、存在を受け入れるという愛情あふれた接触の中で、正しい知識と技術の伝達が行われなければならないのである。幼児の「保護」には、そうした互いの存在を基本的に受け入れる家庭的ホスピタリズムに基づく教育的配慮が不可欠である。
よく言われるような、いわゆる「しつけ教育」は、その枠の中で初めて有効に働くのである。一般に「しつけ」は、乳幼児がその属する社会に適応できるように訓練していく過程として理解されているが、もし、「しつけ」を単純に社会的適応への訓練とだけしか位置づけることができなかったら、社会そのものが不確定に激変し、不確定に変わっていく高度な技術と知識、認識方法、多様な価値観を多大な情報として「家庭」の中にもたらしているような現状況下では、その急激な変化に対応することができなくなって、「しつけ」は「しつけ」をする側とされる側との極度の緊張関係しか生まなくなってしまう。「しつけ」の最も有効な手段は、命令や禁止や指示ではなく、日常生活の全体の流れの中で自然な環境的刺激として、支持、許容、承認、励ましとして行うことであると言われるが、それは、人間の生存のための絶対必要条件が、あくまでもその人が生きていることを受け入れる「存在の受容」であるという深い人間への認識に基づく家庭的ホスピタリズムの形成において可能になるのである。
しかし、今日の日本の社会においては、少子化の影響もあって、幼児の「保護」と教育的配慮は、たとえそれが養護施設のような疑似家庭であっても、完全ではないにしても、比較的重要視されつつあるように思われるし、むしろ、「過保護」の問題性こそが指摘されるかも知れないが、最も一般的で重要な問題は、「教育と学習の場としての家庭の機能」が、子どもの成長とともに、家庭の機能から放棄されていく傾向を持つことである。
近代市民産業社会の発達に伴って、複雑な構造を形成してきた社会の要求と低所得者層を含めた階級上昇志向を持ちつづける「一般市民」の必要性が重なって、日本における教育制度は著しく進展した。教育の機会均等が訴えられ、義務教育制度が定着すると同時に、高学歴による広くて深い知識を持つ人間の育成が図られ、知識の専門化が促された。科学技術の目覚ましい進展は、知識の高度な専門化と細分化を要求し、知識教育のハイレベル化を必要としたのである。そのために、例えば、6歳から12歳までの義務教育課程として位置づけられている小学校で学習する基礎知識も膨大な質と量になり、その知識教育は「家庭での教育」の限界を越えており、知識教育の専門家を必要とするようになったのである。また、そのために、知識教育は「家庭」から放棄されて、公教育機関へ移行するようになり、その公教育機関が社会の中で権威を獲得するに従って、この傾向にますます拍車をかけることになったのである。そして、こうした知識教育の専門化の傾向は、集団教育による社会性の育成という教育論理の正当性も加わって、ますます低年齢化し、幼稚園、保育園、さらには乳幼児へと至っている。
おおまかに言えば、このようにして、子どもの教育が公教育機関に委ねられ始める頃から「教育と学習の場としての家庭」が失われ、家族形態が同居人化していく傾向が一般的となったのである。今日の多くの家庭では、人間の育成と教育は学校でされるという盲信が流布しているし、それだけ教師への期待も過重なものとなっている。
しかし、学校教育機関での知識教育と集団教育だけが教育の内容として重視され、「家庭」が自ら「教育と学習の場」であることを放棄することは、個人の人間性を放棄することになりかねないのである。なぜなら、「家庭」においてこそ、各々の個性が尊重されることによって、社会参加を行う個人としてのアイデンティティーが見い出されるからである。「家庭」における教育は、なによりもまず、自己を獲得するためのアイデンティティーの発見の教育でなければならないのである。親から子へ、子から孫へ、社会が語られ、人生が語られて「生きることの教育」が形成されなければならないのである。