家庭論
家庭論をもとめて

 かって私たちが「普通」であると思っていた家族観が、激動的な社会の変動とともに崩壊し、全く新しい家族についの理解が必要になったと叫ばれて久しい。しかし、いまだに、わたしたちは、その必要な新しい総合的な家族観を構築することができず、混乱状況にある。家族社会学者たちや家族心理学者たちは、現実に生じる様々な家族の問題を分析し、急変する家族観をなんとか捕らえようと懸命に努力している。

 だが、私たちが日常で危機的崩壊現象として感じているのは、社会学的な「家族形態の変容」の問題であるよりも、むしろその家族の共通の生活の場、人間が生きる上で最も基本的な場所としての「家庭」、「ホーム」の崩壊ではないだろうか。つまり、問題は「家族の再生」というよりも、「家庭の再生」ではないかと思われるのである。

 それ故、「家庭の再生」を家庭がもつ機能を分析することによって考えてみたい。

一.倫理的課題の方法論としての家族論から家庭論へ

二.家庭の第一義的機能
 二 - 1.「休息をとる場所」(ホーム)としての家庭
 二 - 2.安心感と存在の受容
 二 - 3.安らぎの第二の条件としての未来の確信の場

三.家庭の第二機能
 三 - 1.共同の食の場の喪失とその意味
 三 - 2.生命の交わりとしての共同の食事

四.家庭の第三機能
 四 - 1.生存のための基本的学習の場としてのの家庭
 四 - 2.生涯を通じての「生きることの教育の場」としての家庭

五.小さなまとめとして

参考文献

一.倫理的課題の方法論としての家族論から家庭論へ

   人は、たとえそれがどのような形態をとっているにせよ、一定の「関係」の中に生まれ落ちる。この「定められた関係」は、何らかの外的要因による関係破壊の場合を除いて、その生存のために自然発生的に「家族」と呼ばれる集団を形成してきた。しかし、この「家族」と呼ばれる集団の形態は、歴史的、文化的、社会的環境によって、多様に変化してきたし、その形態についての幾つかの重要なアプローチも様々な角度からなされうる。

 第一に生物学的理解に基づく提言である。

 家族は、通常、人間の婚姻関係によって生じる性関係と血縁関係によって構成される。人間の血縁意識は、潜在的に、強烈に人間の行動様式を支配し、集団としての「家族」の形成とその形態に多大な影響を与えている。人間のこうした血縁意識や集団構成は、それが自然発生的であるにせよ、意識的であるにせよ、生物としての生存を第一義的に目的としたものであり、基本的には、人間の生物学的本質(biological constitution)に基づいて形成されるものである。動物及び原始的な社会では、家族は常に生物学的群れと同義である。また、人間が直感的に他者を家族として認識するのは、動物的「刷り込み認識」を含めた生物的感性に依存することが多いし、遺伝情報の類似性もまた、家族を生物学的概念として理解することを可能にしている。

 古代社会の大家族制度における奴隷や使用人を含めた「家族化」や養子縁組みによって社会的認知を得る「家族化」の場合においても、その目的の第一は生物学的生存であり、「家族」についての生物学的理解は家族論に不可欠のものである。そして、こうした家族の生物学的理解は、人間の生物的な本性に基づいた家族の機能と家族を構成する構成員の役割を、生物としての人間の生存の観点から明瞭にしてくれる。

 あるいはまた、家族を存在論的に理解することも可能である。人間は本質的に自己以外の他のものとの関係性において存在している。人間存在が本質的に関係存在であるということは、人間の行動様式を理解する上で極めて重要であり、人間は、潜在的に自分が生きていることを実感できるような「我ー汝」の人格関係を形成しようとするし、またそれが失われた場合には、その回復を試みる。家族の形成は、そうした人間が生きる上での潜在的存在論的欲求に依拠している。そしてその関係性を哲学的に基礎づけ、心理学的に分析して、家族に新しい存在論的光を投げかけることが可能である。正しい人間論に基礎づけられた心理学は人間の内的衝動を分析し、そこから新しい関係性を構築しようとすることによって、家族の諸問題への処方箋の役割を果たしうる。

 しかし、「家族」を最も本質的に理解するためには、家族を一つの共同体として位置づける社会学的理解が必要不可欠である。社会学は、家族そのものというよりも、むしろ家族の形態を問題にするが、この家族の形態こそが家族の問題の主要な関心事となるからである。なぜなら、人はその自然的状況から離れて、意識的に「家族を形成する」方向へと向かう必然性を負っており、その必然的過程の中で、どのような家族を形成するかが、常に問題となるからである。

 従って、家族はいつでも、その時代と社会状況の中で、他者との共同体の形成の目的を持って出発する。人間は、生物学的家族の中に生まれ落ち、やがてその成長の過程で、社会学的家族の概念を再獲得することによって意識的に家族の構成員となり、新しい共同体形成の目的をもって家族を形成する。その際の「家族」は、人がその成長の過程で意識的に獲得した社会学的概念としての「家族」観に他ならない。従って、その家族の形態は、それが属する社会の構造と文化に依存している。文化人類学は、家族の形態が、結婚や養子縁組の問題をも含めて、社会の文化と習慣に依存していることを明らかにし、家族の定義が様々であることを明瞭にした。また、最近の社会学者たちは、核家族化などの家族形態の変化を、産業化や都市化などの社会構造の変化の過程として理解すべきことを主張している。つまり、産業社会の中で必要とされたのは、かっての農業社会のような家族の共同作業ではなく、個人の能力であり、社会全体が個人化し、加えて、産業の合理的集中によって生まれた大都市への大量の人口移動によって、人口密度の高い、狭い空間での居住が要求されたために、必然的に大家族が崩壊し、核家族が誕生したといのである。そしてこの核家族への移行に伴って、たとえば、子どもの教育の問題や高齢化社会への対応、独居老人の問題など、さまざまな問題が生じてきたことは、多くの社会学者たちに指摘されるとうりである。

 この点に関しては、20世紀になって行われてきた西欧における家族の社会学的研究は多くの示唆を与えてくれている。

 例えば、L.W.ワーナー(Warner)のようなアメリカの家族社会学者たちによれば、ヨーロッパにおける資本主義の初期の段階では、社会は、その家族形態から分析すれば、貧困労働者家族、旧制度的農民家族、ブルジョア家族の三極構造を持っており、新しく台頭し、都市における大衆家族の基となった貧困労働者家族は、伝統も経験も通用しない新しい形態の中で、資産も生産手段も、社会を上昇していくための学歴もないままに、貧困、失業、栄養不良、アルコール中毒、虐待、売春などの諸問題を抱えていた。一方、ブルジュア家族では、伝統的権威の形式化と同時に退廃と世俗化が進行し、自由恋愛結婚の制度化と青年期間の延長、子弟の教育などが問題となっていた、というのである。そして、生活様式の都市化とともに、これらの中から新中産階級が成立し、勤勉、誠実、堅実な暮らしをモットーとすることによって、社会の最下層から区別され、上流階級にのし上がろうとして、その生活様式や態度を懸命に学習する人々が登場した。そこでは、恋愛結婚はすでに定着している。これが、いわゆるアメリカ社会におけるホワイト・カラー家族である。ここでは、対社会関係の問題と同時に、家族内における夫婦、親子どの関係の情緒が重要な問題となっている、と指摘するのである。そして、この大衆化されていく多数の中産階級の出現により、経済形態による社会の階級化が崩壊のきざしを見せ始めると、ホワイト・カラー家族の形態とそこでの家族の問題が社会全体へと拡散されていったのである。

 ここで指摘されているヨーロッパとアメリカの近代社会の中で形成されてきた家族の問題は、今日の日本社会の家族の問題の中でも同様に見ることができる

 第二次世界大戦後の1946年の新しい日本国憲法の発令とそれに基づく翌年の1947年の民法改正までの日本社会の家族観は、戸主の絶対権限によって家族全体の統制を行っていた旧武士層の家族観であった。人々は、良きにつけ悪しきにつけ、そのような絶対権限をもつ家長による家族の秩序維持を理想としてきたし、社会全体も、家族統制と同じ理論で形成し、大家族をひとつの生産単位として統制したり、産業や社会組織全体の維持を促進してきた。そのためには、旧武士層のもつ明瞭な階級意識と家長への絶対忠誠を誓うことを必要としたのである。

 こうして、旧武士層の家族観は社会全体の構造となり、人々の精神に深く浸透したのである。今日でもその家族観に基づく精神構造を、会社組織や礼儀作法を初めとする「日本的」と呼ばれるものの多くに見ることができる。

 しかし、戦後の新憲法下では、アメリカ合衆国占領軍の強い指導もあって、新しい家族観が必要とされた。その際の新しい家族のイメージとして用いられた「理想の家族のイメージ」は、アメリカのホワイト・カラー、中産階級の家族のイメージだったのである。それは戦後の日本社会の復興、急速な産業社会の形成、都市化の促進と呼応して、社会全体の中で、ある種の必然性を持って定着していった。テレビなどの視覚メディアの国民的拡大がそれに拍車をかけ、TVで放映されるアメリカ・ホワイトカラーのホームドラマが「理想の家族のイメージ」を促進した。それ故、アメリカ近代社会における中産階級の家族の問題がそのまま日本の家族の問題として浮上しているのである。しかも、日本社会の場合は、一方では、旧武士層の家族観に基づく精神構造が根強くあり、もう一方では、中産階級の家族のイメージだけが、それが生み出された社会的背景や思想の根本の理解のないままに浸透したために、問題がより複雑になったのである。例えば、家庭内での世代間の断絶が起こり、親子関係が崩壊したり、世界で最も教育が進んだ社会でありながら、その教育現場である学校や家庭で教育そのものが崩壊している現実は、そうし複雑な家族観をもつ社会構造にも由来しているし、その一因もここにあると言えるのである。

 こうした家族についての歴史社会学的視点は、家族制度の変遷と「家族のイメージ」の変化が現実にどのように影響を与えているかを明瞭にしてくれるし、それによって、家族論の本質と家族の再生という倫理学的課題を考察する場合に、極めて重要なこととなるように思われる。家族は常に変化の過程の中に置かれているし、また、家族の再生には、明瞭な共同体の形成の意志が必要とされるからである。倫理的課題としてのここでの方向は、その意志を整えることにある。

 家族の社会学的理解は、また、社会学の共同体概念、もしくは集団概念の適用を可能にし、家族再生論の根幹を提供してくれる。R.K.マートン(Merton)によれば、集団(共同体)とは、「型どられた方法で互いに相互作用し、自ら集団に属していると感じ、そして他の人たちによって同じ集団の成員だと認められているような人々の集まり」である。集団の構成員は、相互に認知された規範を共有しており、その規範によって規定された役割行動を交換し、この役割の交換によって集団を自乗的に構成する。加えて、集団の構成員は、集団への帰属意識を発達させ、集団への一体感を生むし、「われわれ意識」を発達させ、外部に対する連帯意識を生んでいく。そしてそれが外部のものから集団として認知されることによって社会内存在として構成される。つまり、家族は、それが属する社会の文化と歴史の相互作用の中で特有の規範とその規範に従う役割を持ち、家族の成員がその一員であるという帰属意識を持ち、しかも他からもそれが認められる集団に他ならず、家族が家族として認識されるのは、家族特有の共同活動を行うからに他ならないのである。この家族の社会学的規定から、「共同家族」や「核家族」といった概を用いることが可能となり、そこから、家族を家族として規定する特有の共同活動を考察することが可能となる。そしてそこから家族の形態を再生していくという倫理学的家族再生論の道の一つが開かれていくのように思われる。

 では、家族を特徴づける家族特有の共同活動にはどんなものがあげられるだろうか。個人としての人間の社会活動のほとんどは共同体としての家族によっても担われているが、共同活動として、夫婦の性的活動と妻の出産、子どもの養育、教育活動、集団としての家族の保護と防衛活動、消費と生産活動等があげられるかも知れない。しかし、これらの家族の諸活動のうち最もその基盤となるのは「家庭の形成」ではないだろうか。「家庭」は同居している家族の構成員によって形成される家族活動の基盤であり、そのことは人間の社会活動、つまり人生の基盤であることを意味している。家族にとって、同居するかどうかは、その社会の文化や状況に依存した事柄であり、たとえば親にとって独立して別居している子どもも家族の固有のメンバーであることに変わりがないように、必要条件とはなりえないが、家族の共同活動のためには、そこで形成される「家庭」が必要となる。

 ことに、高度に産業化した社会での現代家族の形態が、核家族や夫婦家族の形態をとる傾向を顕著にする時、「家庭の形成」は最重要課題となる。それらの家族では、夫婦が家族の基盤となり、その間に生まれた子どもの養育に共同して当たり、成長した子どもはやがて自立して親元を離れていく。子どもの養育期には夫婦と親子は同居して、生活を共同し、夫婦は生涯に渡って円満な関係を保つことを理想とされる。この社会の中では、人は配偶者を選択し、「家族を創る」ことから家族が始まると考えている。子どもをつくるのはその「家族創造」の一つの選択行為であり、子どもの養育はその行為の責任と義務だと考えられている。それ故、子どもの自立と離家は、その責任と義務の終了であり、夫婦は子どもによる継承を期待しないし、またできないと考えている。こうした信念と期待から成り立つ家族にとって、創造するものとしての家族の在り方を示す家庭の形成は、その文化社会活動を含めて、ライフスタイルと直結した重要なものとなるのである。

 それ故、通常、人が直感的に家族について危機意識を抱く場合は、社会学的に分析される「家族形態の変容」であるよりも、その変容によってもたらされた「家庭」の崩壊に直面した時である。核家族や夫婦家族にとって、「家族」と「家庭」は密接に関連しているので、これを厳密に区別することには、ある種の困難を伴うが、「家族」は人間が持つ関係性の絆を意味し、「家庭」はその家族が共通して持つ生活の場、生活空間を意味しているとすれば、最も深刻な危機意識としてもたらされるのは、絆の変容によって「家庭」つまり、人生の基盤である生活空間としての「生きる場」が失われることである。人が生きる場所である共同生活空間としての家庭の崩壊は、ライフスタイルの崩壊そのものを意味しているからである。

 例えば、現代の日本社会の中で離婚は数分間に一組の割り合いで行われているが、それによって最も深刻で具体的な問題として立ち上ってくるのは、離婚の是非の倫理的問題ではなく、離婚によって生じる人生の基盤としての「家庭」の消失である。家庭の消失によって、離婚の当事者である男女だけではなく、その間に生まれた子どもも、「生きる場所」を失う。そして、人間の存在感覚として、この「生きる場所を見いだせない」ことほど辛いことはない。あるいは、家庭内の暴力、傷害、殺人が頻繁に起こっているが、そのことによって、家族の絆の形は変容するが、深刻なのは、「ホーム」として形成されるべき共同生活空間の「場」としての家庭の崩壊である。家庭内での暴力や虐待によって、「生きる場」は悲惨な形で失われる。

 従って、倫理学は、家族についての考察において、この「家庭の再生」の課題を重要な課題として問い続けなければならないのである。「家庭」は家族の形態によって多大な影響を受け、家族の形態の変容は、先述してきたように社会学的考察を必要とするので、そのことに十分配慮しつつも、「家庭」についての新たな認識が急務のことになるように思われるのである。そして、人が生きる場所としての家庭についての倫理的考察は、やがて、新しい共同体形成のカギとなっていくに違いないと確信している。個別化した社会の中での「共同」もしくは「共生」の在り方を探ることによる新しい世界の創造が、今こそ最も必要とされているからである。

 ここでは、その「家庭の再生」の問題を、家庭が持つ諸機能を検討することによって考えてみたい。それは、「家庭機能論」と呼ばれ得るかも知れないが、家庭においてはその果たしている機能と形成が相関的に起こるからであるし、また起こるべきものだからである。そしてまた、家庭は、それが属する社会の構造、精神、文化、政治、経済、価値観などの影響を深く受けつつも、相関的に、社会全体のそれらのものを形成する要因ともなるが、家庭は、あくまでもその独自の機能を果たすことによって、明瞭に「家庭」として存在しているからである。

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