K's Community 現代倫理学概説

その8


<人間の生命の絶対的メカニズム
としての誕生・成長・死>

 人間は、他の動植物と同じように、植物が種から成長し、花を咲かせ、新しい種を作り、やがて枯れて死んでいくように、その雄の精子と雌の卵子の結合(多くの場合、親の生殖行為であるが、近年は人工授精や遺伝子操作による結合も可能になっている)から生じる細胞分裂によって誕生し、成長し、やがてその生命活動の終わりとしての死を迎えて、その一生を終えます。
人間は、たとえどのように医学が進歩し、その延命が計られようとも、結局は、その生命のメカニズムから逃れることができません。
どのような誕生の仕方をしたにせよ、生命として誕生した以上は、成長し、終焉としての死を迎えます。
これは、生物としての人間の生命の生理的絶対的過程であり、それは、人間自身の意識や意志を越えた、人間に本質的に備えられた限界でもあります。
そして、人間が、自分の限界として、生理的生命の絶対的過程を宿命づけられているということを自分で認識することは、人間を考察し、位置づける上で極めて重要なことのように思われます。
なぜなら、往々にして、例えばその自由と可能性が無限に開かれることを知覚する時、人間はその宿命づけられた限界を忘れ、それによって、かえって非人間的な結果を招き、自らを滅ぼしてしまう危険性をはらんでいるからです。
そして、人間の自由と可能性は、この人間に本質的に備えられた生命の絶対的過程の限界の認識においてのみ、初めて正しく位置づけられるからです。
 人間の存在の始まりからして、それは、自分を越えた「外」から根拠づけられ、与えられたものに他なりません。
人間は自分の意志以外の要因によって、この世に存在を始めます。
つまり、人は誰でも、自分の意志でこの世界に誕生するのではありません。それはまた、親の意志だけによるのでもありません。
どんなに子どもを望んでも、与えられない夫婦もあれば、望まれない状態で生まれ堕ちる子どももいます。また、生まれ出る時代や環境を選択することもできません。
人間がこの世に存在を始める誕生は、まことに「奇跡」とでも呼ぶしかできないような、自分の「外」に根拠をもつ数多くの「不思議」に満ちあふれています。
ここではこれを「存在の奇跡性」と呼ぶことにしましょう。
 現代医学と遺伝子工学は、人工受精と遺伝子操作の知識と技術によって、「誕生の不思議」を減少させ、人間の「存在の奇跡性」を数理的に計算可能な世界に引き戻したかのように見えます。
やがては、完全なバースコントロール(誕生制限)が可能となり、人間は医学実験室で誕生するようになるかもしれません。
しかし、たとえそのような誕生であったとしても、人間が試験管の中で、ある種の化学反応として誕生したとしても、人間の誕生、存在の奇跡性は少しも損なわれることがないのです。
その時代に、その環境の中で、そのような遺伝子をもって世界に存在を始めることそれ自体が、まさに人間の意志を越えたものだからです。
 そして、この人間の誕生、存在の奇跡性の自覚こそが、人間の存在を「貴いもの」として尊重させ、誕生を「聖なる出来事」として位置づけさせているのです。
ここでは人間の限界は人間の「聖性」と表裏一体となります。
 人間はこの聖なる存在の奇跡性をもって、その存在を開始し、そして、生命の過程をたどり成長していきます。
すべての人間はこの過程をたどりますが、しかし、この過程は、その時々に、全く個別的に、そこで生きている人間の精神と肉体に多大な影響を及ぼし、その人間の行動様式を生み出していきます。
 この過程が、全く個別的であることも、私たちが認識しておかなければならないことのひとつです。
つまり、人間を理解する時には、その人間がどのような生命過程にあるのかが極めて大切なこととなり、生まれたての赤ん坊と死を前にした老人を同列に考えることはできませんし、赤ん坊にいきなり硬い肉を食べさせることもできません。
 このことは、もっと短い期間においても、例えば、20歳前後の期間においても、成長の途上にある者と大人としての成長を終えた者とを同列に考えることができないということでもあります。
また、人間は他の動植物に比べて非常に長い成長期間を必要とし、その成長にも段階があり、その段階には個人差や環境差が深く関わっているので、これを一列に並べて取り扱うことができないことを意味しています。
つまり、人間は、誕生・成長・死という生命過程をたどりつつも、その過程は個々に全く別のものであり、それを画一化することは人間の生物的生理に反することとなります。
昨今の日本の「荒れる若者たち」の衝動的行動には、社会が無意識の内に行っている均一化や画一化に対する、そうした生物的生理的反発が、時に暴力的行為や自虐的行為として現われているとも言えるように思われます。
 人間の成長には「教育」は不可欠の要素ですが、その教育が「マス教育」となって画一化されることを要求すると、別々の成長過程にある青少年たちは、あきらめるか従順な振りを装うか、自虐的になるか暴力的になるかの自己表現の形態はともかく、教育そのものに対する生理的不信感を抱くのは必然的な結果となります。
戦後の日本の政治と教育の誤りのひとつがそこにあるように思われます。
人間が「個々全く別々の絶えざる過程の中にある」ことは、広く、そして深く認識されなければならない事柄に他なりません。
 しかし、人間の成長の過程が個々に個別化されたものであるにせよ、人間は、誰でも、その成長の過程を終えると、やがて衰退し、生命活動の終わりとしての「死」を迎えます。
「死」は、個別化された生命の「終わり」を意味しています。M.ハイデッガーは人間の存在そのものを「死に向かうもの」として位置づけ、人間は常に死につつある存在であると認識しましたが(*16) 、まさに人間存在の一瞬一瞬は、その生命の終わりとしての死に向かう一瞬一瞬に他ならないとも言えます。
 しかし、死が個別の生命の終わりであるということは、「死」が個別の生命活動の「完成」であることを意味しているのではありません。
経験上の多くの場合、人間的に見て、「まだ未完成である」ことを感じつつも、「死」を迎えなければならない事実を良く知っているからです。
否、むしろ、人は、未完のままで、その人生の終わりとしての死を迎えなければならない、という実感があります。
しかし、それが未完であれ、なんであれ、死は、確実に、避けがたい「終わり」として、人間に訪れ、人は単独でそれを迎えなければならない宿命の中に置かれています。
人間の生命過程の終わりは、まことに、孤独と不安に満ちあふれています。
そして、人間の肉体は化学分解し、異なった化合物や物質となって世界に拡散していくのです。
 人間は、この生命の過程を自らの宿命として存在しているのです。
それは、時間の経過とともに、人間に必然的に訪れ、そのメカニズムによって人間を規定します。
それは、人間に本質的に定められた限界であり、たとえほんの少しその限界を広げることができたとしても、人間はこの限界を越えることができないのです。
そして、この限界は、その生がどのようなものであれ、どのように高い価値があると認められるものであれ、何ひとつ認められないものであれ、あらゆる人間に平等に降される「無化」の鉄槌であり、その衝撃は計りがたく大きいのです。
それ故、「死」に関しては章を改めて考察したいと思いますが、ともあれ、人間は生物として、その限界を明瞭に線引きされて生きているのです。
 しかし、それと同時に、生物としての人間は、その生物としての限界の中で、自己の欲求を、真の意味での生存のためにコントロールし、さらに、自己が限界の中で生きていることの意味と可能性を探ろうとします。
この「自己の存在の意味を探究しようとするもの」、それが人間の「理性(reason)」に他なりません。 人間は他の動植物と同じような地球に生息する生物ですが、同時に、人間は「理性的存在」でもあり、「理性的」であることによって、人間は自らを「人間」として自覚することができるのです。

K. Wiseman 著
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