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人間は、まぎれもなく、太陽系第3惑星、つまり、地球上に生息する哺乳類の一種であり、その中でも霊長類と呼ばれる種に属する生物です。
同じ霊長類に属するサルなどと、その遺伝子の構造も含めた生物学上の相違点がほとんどないことは、今日の生物学が指摘する通りです。
従来、他の地球上の生物との比較において、脳の大きさとそれに伴う知性の発達とコミュニケーション能力、直立歩行と器用に動く手足、生殖能力の高さ、遺伝子の環境への柔軟性など、生物としての「人間」がもつ優位性が数多く指摘されてきました。
しかし、たとえどんなに多くの優位性を持ち、優れた能力を発揮させ、その知性を自らの肉体的限界から切り離すことが可能であったとしても、人間が生物であることに変わりはありません。
人間が生物であることの具体的な事柄は、生物学や人類学が明確に語ってきましたが、ここでの倫理学上の考察において、最も基本的な事柄は、次の2点の認識であろうと思われます。
すなわち、
1)人間は生物としての生存のためのいくつかの本能的欲求をもつ。
2)他の動植物と同様に、個体としての人間は、誕生、成長、死という生命活動に従って生き、またその限界を持つ。
ということです。
この2点は、人間の生の最も根本的問題を提示しますので、それが人間にとって何を意味するのかは、もう少し考える必要があります。
<生存欲求>
人間はだれでも、たとえどんなに自己鍛練をし、禁欲を訓練し、その精神性のみを強調したとしても、その生存のための基本的・本能的欲求をもって生きています。
渇けば飲み、飢えれば食べ、疲れを覚え、休息を必要とし、また、種を保存したいと願う本能をもって生きています。
人間の生命活動、行動、思考のほとんどは、これらの欲求の充足のために行われるといっても過言ではありません。
そのため、たとえば、フロイト心理学のように人間のあらゆる行為を、その人間が持つ潜在的欲求や本能から分析することも可能です。
人間の恋愛行為のすべては、種を保存したいと願う本能的欲求の現れとして位置づけることができますし、富みに対する欲望や名誉欲などは、食欲の社会的変容の姿として理解することができます。
先述したA.ゲーレンは、生物学に基づいた人間科学の立場からも、人間のすべての行動を「生物学的自己保存の衝動」として位置づけています。(*14)
人間の行為のすべてが、単に、生物学的自己保存の衝動に由来するかどうかは、もう少し厳密に考察する必要があると思われますが、人間が生物的な自己保存の本能をもって行動する動物の一種であることは、まぎれもない、動かしがたい事実です。
従って、人間が生物として本能的に持つ自己保存の欲求を認識せずに、否定するようないかなる思想も行為も、結局のところ、人間にとって無意味なものでしかありえません。
たとえば、ある新興宗教の教祖は、「修行」と称して、その信者に「食べることと眠ること」を禁じ、そうして生み出された精神的自己喪失状態を、人間の持つ能力以上のものを生み出す神秘的な状態として賞賛しました。
生物的本能的欲求を否定し、精神性のみを高めようとしたのですが、この教団の末路は、大量殺人と自己破壊でした。
人間の生物性を否定することは、人間そのものを否定することに他ならないのです。
しかし、本来は生物学的自己保存のための本能的欲求であったものを、人間は、自己の状況と都合によって、際限なく発達させる能力をも持っており、この際限なく発達した欲求によって、人間が自ら滅びを招いていくことも、また事実なのです。
ライオンは自分が満腹の状態にある時は、側にどのように餌があっても、これを殺して食べようとはしませんが、人間は、かってのローマ帝国の貴婦人たちのように、自分ののどを棒で突いて、今食べたものを吐き出してまで、さらに美味しいものを食べようとします。
他の動物たちが基本的には同種のものを本能的に殺さないのと違って、人間は、その欲望のために同種の人間を殺してしまいます。
野放しにされた本能的欲求のすさまじさと危険性は、人間の歴史の中で幾度も証明されてきました。
肉と肉が争いあい、傷つけあって、殺しあうことは日常茶飯事として起こっています。
動物は、自己保存の本能的欲求と同時に、その欲求を制御する力もまた本能として備えていますが、人間はその制御本能を簡単に取り払ってしまうのです。
そして、制御のきかない野放しの欲求のいき着く果てが、自己自身の滅亡であることは実証済みの事実です。
日本における霊長類研究の第一人者であり、動物行動学者の河合雅雄が『森林がサルを生んだ』という著作の中で、頭蓋骨が割られた状態で死滅した日本ザルの群れの調査から、大変興味深い報告をしています。
彼によれば、サルたちは初めは草原に住んで生活していましたが、草原は天敵も多く、敵の急襲にも逃げ場がなく、エサを取るためには他の動物との激しい闘争をくり返さなければなりませんでした。
サルたちの草原での生活は絶えざる緊張の連続の中にあったのです。
そこで、やがてこのサルたちは、緊張を強いられる草原を捨て、エサも豊富で、比較的安全な森林へと移動していきました。
森林では、立体的な木の上での生活が可能となり、生活空間が広がり、天敵からも守られ、草原で暮らしていた時のような緊張から解放され、生活にゆとりが生まれました。
この生活のゆとりによって、サルたちは、他の動物には見られないようないろいろな遊びを始めるのです。
それは、戦後の飢えから解放され、ある程度の物質的豊かさというものを獲得した現代日本人や、受験競争を終え大学に入学して「我が世の春」を謳歌する学生と同じ姿と言えるかも知れません。
サルたちは、段々と美食を覚え、やがて偶然なめた傷ついた仲間のサルの脳みそをの味を求め、本来は本能的制御能力によって行わないはずの同族殺しを犯し、仲間のサルの頭を割って、脳みそを手で少しずつなめて食べたらしいのです。
こうして、サルたちは同族殺しをくり返し、全滅していった、というのです。(*15)
この点に於いては、人間は、この同族殺しをくり返したサルたちよりもひどく、古来から自分の欲望のために他の人間を殺すことをくり返してきましたし、古代人が食人種であったことは良く知られている事実です。
殺人は日常のこととして起こり、戦争という馬鹿げた行為で大量殺戮さえ行ってしまいます。
人間の欲望は、まことに、悪魔の住み家となり、やがては滅亡にいたることは明白です。
こうしたことに対する自覚から、人は、欲望に対する動物的制御本能の変わりに、タブーや「ルールによる規制」、さらには「禁欲主義」という形態を生み出してきました。
これらは「人間の自己保存のための欲望放任の禁止行為」と呼んでも良いかも知れませんが、世界中のどの地域、民族や文化の中に共通に見出せる「禁止行為」であり、禁欲主義の歴史も、洋の東西を問わず、古くから主張されてきました。
タブーや宗教は、そこに大きな役割を果たして来ました。
しかし、先にも少し触れましたが、極端な禁欲主義は、生物としての人間を否定し、人間が本来的にもつ人間性を損ない、かえって人間自身の滅亡を招く危険性を多大にもっています。
つまり、人間がもつ欲望を野放しにすることも誤りですが、それを頭ごなしに押さえつけるのも、また、誤りなのです。
古来から、そのバランスを取ることが大切であると考えられて、「中庸」が貴ばれてきた理由もそこにあります。
しかし、「中庸」は、その具体的中身をどのように考えるかが、時代や状況、文化や社会形態によって異なってくるのも事実です。
例えば、単純に「中庸の食欲」といっても個人差があり、「中庸である」と感じる感性も人によって異なるし、他の欲望にしても、倫理観の異なる人間や社会では、その「中庸点」も異なってきます。
従って、問題はもっと根源的に考えられなければならないのです。
つまり、問題は、人間が生物としてもつ自己保存本能とそこから生み出される欲求をきちんと認めつつも、その欲求が向かうべき方向を正しく指し示すことができるかどうかにあるのです。
近代以降、かっての宗教にかわって、この役割を最も良く果たすものとして期待されてりたのが人間の「理性」に他なりません。
人間はまぎれもなく「理性」をもつ生物なのです。
この「理性」については、後述しますが、たとえ最も良く働く「理性」をもったとしても、その理性で解決することができないで、ただ、認識することしかできない事実があります。
それが、「誕生し、成長し、やがて死ぬ」という人間の生物としての生命のメカニズムです。
理性は、それを認識し、受容し、そして、その意味を探り、それによって各々の過程での最もよい生存のための人間の在り方を提示しようとするのです。
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