K's Community 現代倫理学概説

その5


<人間とは何かの考察の歴史(1)>

 少し歴史的に見てみますと、「人間とは何か」という問いの萌芽は、最初に述べました人間の世界開放性の故に、人間の原初的状態から宿っていました。
初めは、もちろん感覚的な意識であったに違いありませんが、それが明瞭に思想の形として表現されるのは、残されている資料の限りでは、紀元前5ー6世紀ごろからです。
 たとえば、『ギリシャ神話』の中の有名な「プロメテウスの神話」では、動物には生存のための適当な能力が与えられたが、人間だけが取り残され、これを見たプロメテウスが人間を憐れみ、火を使う技をはじめ種々の技術を人間に授けた、と記されています。
 この「プロメテウスの神話」における人間の洞察には、まことに鋭く深いものがあるように思われます。
それは、第一に、人間には他の動物に備えられている生存のための本能的能力が欠如しているという指摘です。
 M.シェーラーの影響のもとで、現代の生物学の研究成果を受け入れ、総合的人間科学を提唱しているA.ゲーレン(Gehlen)は、人間が生物形態学的にサルの胎児の進化が停滞した「欠陥動物」であり、生理学的に正常化された早産児であり、生きるための器質的手段を欠いているために、直立歩行、言語の使用、技術的行動などの文化的手段を講じて、その欠陥の負担を軽減しなければならないように定められている、と論じています。(*3)
例えば、歩行移動能力に関して言うならば、他の動物が誕生と同時に移動可能になるのに比して、人間が自分で移動できるようになるまでには、およそ1年という長い年月を必要とします。
生殖可能になるまでには、他の動物の5〜10倍の年月を必要とします。
A.ゲーレンは、その生物学的器質的欠陥の負担を免除しようとする「負担免除」の行為が人間の存在の本質構造としてあることを明瞭に認識しようとするのです。
この主張だけを採ってみれば、このA.ゲーレンの主張は、「プロメテウス神話」における人間理解の科学的論証と言うこともできるように思われますし、古代の「神話」における人間理解の深さをよく示してくれていると言えるのではないでしょうか。
 「プロメテウス神話」の人間理解の優れたことの第二の点は、人間が生存のために火を初めとする種々の道具を使う知能と技術を有する生物であるということです。
A.ゲーレンの言葉を借り、人間が知的に営む行為の総称を「文化(Culture)」と呼ぶとすれば、人間は、その生存のための「負担免除」の行為として、文化的行為を行う生物に他なりません。
古代ローマ時代の雄弁家キケロも人間を「文化的動物」として定義しましたが、もともと「文化」を意味する欧米語の語源となったラテン語の「cultura」は「耕作」や「土地の世話」を意味し、人間を指す「ホモ(homo)」は「大地(humus)」という語根をもっています。
アダム(人間)はアダマー(地)に由来します。
つまり、「文化」とはこの大地である「人間」を耕すことを意味し、人間が自分自身と自分の環境を開発することを意味しているのです。
「プロメテウス神話」は、この「文化的行為」を行う知恵が人間にプロメテウスによって与えられたものであることを語りますが、古代ギリシャ神話の「神(ゼウス)もしくは神々から与えられた」という表現はそのものの本性として備えられていることを表しますから、「プロメテウス神話」は「文化的行為」が人間の本性であることを伝えているに他なりません。
それは、現代の人間学のいう「負担免除としての文化的行為」とか「人間の世界開放性」という思想と、根本においては、同じ人間理解であると言えるように思われます。
 しかし、ギリシャ神話における人間理解が、あくまでも人間を自然世界の一部とした理解であったことは注意しなければならないことのように思われます。
それは他の多くの「神話」においても言えることですが、人間は、宇宙や世界の中心ではなく、その一部に過ぎないものとして位置づけられ、理解されています。
「神話」においては、先ず最初に、コスモス(cosmos - 現在この言葉は「宇宙」を意味する言葉として使われている)と呼ばれる絶対的に聖なる世界秩序が存在し、この世界秩序を統括し、維持するのが神々であり、人間はその世界秩序の一部にしか過ぎないのです。
そして、この人間の位置づけと理解は、「神話」から「科学」へと進んでいったギリシャ思想の過程においても、聖なる世界秩序としてのコスモスの概念が具体的なポリス(国家)や社会へと変わっても、変わることがありませんでした。
古代ギリシャやローマ社会にあっては、社会全体の総体においては、人間はあくまでポリスや社会に役立つものとして訓育され、位置づけられ、理解されたのです。
その意味では、人間はあくまでも全体の中の小さな部品にしか過ぎず、個人としての「人間」そのものが重要視されるのは、もっと後の時代になってからなのです。
 紀元前5世紀ごろに人間理解の思想的表現としてまとめられたもう一つの優れたものは、旧約聖書の『創世紀』の「アダムとイブの創造神話の物語り」です。
『創世紀』の「人間創造の神話」には、「ギリシャ神話」における人間理解にはない、「罪あるものとしての人間」といった、深くて鋭い人間理解がありますが、聖書の人間理解は、ここで簡単に触れるというわけにはいかないくらいの重大な人間理解がありますから、それは節を改めて触れることにして、ここでは、紀元前5世紀ごろに、人間理解の深くて鋭い、そして重要な思想的表現が行われたということを記すだけにしておきたいと思います。
 その後、古代ギリシャ思想においては、先に述べたような「人間は万物の尺度である」とか、「人間は社会的動物である」とか、「人間はロゴスをもつ動物であり、合理的動物、理性的存在である」といった人間観が生まれました。
これらの人間観は人間そのものを良く観察し、分析し、理性的に思考された人間観ですし、後の西欧思想を基礎づけ、人間の価値を決定づける判断材料とさえなってきました。
その中でも、西洋のものの考え方の歴史的変遷から見て、興味深く、また、重要なのはプラトンが提示した人間観であろうとおもわれます。
 プラトンの人間観も、基本的には、それまで考えられたきた伝統的なギリシャ思想の人間観を受けて、人間を理性的生物とする人間観であす。
彼は『クラテュロス』の中でソクラテスの口を借りて、「“人間 (anthropos)”という名前が何を意味するのかと言うと、他の動物たちが、自分の見るものを何ひとつ考察せず、検討もせず、観察もしないのに反して、人間は見た - つまり視た (opope) - だけでなく、同時に視たものを観察し(anathrei)、考量するということなのだ。
まさにこのことからして、動物たちのうちでひとり人間だけが、正しくも“人間 (anthropos)”、つまり“視たものを観察するもの(anathron ha opope) ”と呼ばれたわけなのだ」(*4) と述べて、人間の理性的精神性をもって「人間」を定義づけています。
 しかし、プラトンの最もプラトンらしい人間理解は、彼の『饗宴』の中に見られるように思われます。
彼はそこで、人間がなぜ現在のような姿と形になったのかということについて、アリストパネスという登場人物を借りて、次のような神話を語ります。
 つまり、人間はもともとは現在の倍の大きさと力をもっていたが、その力の大きさの故に自分を神にするという傲慢が始まってしまったのです。
昔も今も、自分の能力の過信による傲慢ほどやっかいなものはないのかも知れませんが、これを見たオリンポスの最高神ゼウスは怒り、この人間の力を弱くして凶暴性を失わさせるために、人間を真二つに切断してしまうのです。
さらに、もしこれで人間が反省しないなら、ゼウスはこれをまた二つに裂いて一本足の姿形にするつもりでしたが、そこまではしないですんだのです。
それで、現在の人間の姿と形は、こうして生まれた、とアリストパネスは言うのです。
そして、「そこで本来の姿が二つに断ち切られたので、皆それぞれ自分の半身を求めていっしょになった。 そして互いに相手をかい抱きまつわり合って一身同体になろうと熱望し、お互いから離れては何一つしようという気がないから、飢えのためや総じて生活に必要なことを何もしないでいるために死んでいった。」と語り、「したがって、ぼくらはヒラメのように一つのものを二つに断ち切られたのだから、一人一人が人間の割符というわけだ。だから誰でも自分の割符を探し求めるのだ」と言います。(*5)
 このアリストパネスの口述をかりて語るプラトンの人間観には、真に興味深い、そして現代の私たちが改めて考え直さなければならないいくつかの重要な人間理解が込められているように思われます。
その第一は、人間が本質的に「欠如」をもつ存在であるということです。
「プロメテウスの神話」では、人間の生物学的、器質的弱さ、いわゆる「欠陥」が語られましたが、プラトンの場合は、極めて存在論的で、人間が、存在論的な本質として、「欠如」している存在であることが明瞭に認識されています。
そして、この「欠如」を補うために何かを求めることが宿命づけられ、人間は、その本質的欠如感からくる欲求に基づいて行動する、というのです。
 この欲求する力をプラトンは「エロース(愛)」と呼び、それを人間の行動原理として位置づけました。
「エロース」は、今日では、ただ、性的な欲求を意味する言葉としてのみ用いられたりしますが、性的な欲求を表すだけなら「エピトゥミア」という言葉がありましたので、本来、「エロース」は、性的な欲求を含むが別の次元の欲求を表す言葉だと思われます。
プラトンはこの話の結論の部分で、「完全なものへのこの欲望と追求に、エロースという名がつけられているのだ」(*6) と述べていますから、「エロース」は、「本来の自己を求める力」、あるいは「完全を求める力」と言うことができるでしょう。
人間があらゆるものに向かって理想的な完全を求める衝動と言ってもよいかもしれません。
 それ故、彼の人間観を一言で言い表すとすれば、エロース(愛)に基づいて、永遠に「完全」を求め続けるもの、とでも言うことができるように思われます。
それは、いかにも「理想(イデア)」を追い求めたプラトンらしい人間観ですし、自己の欠如を埋めるべく懸命に努力していく人間の姿には、切実な感動さえ呼び起こすものがあります。
 プラトンが描くアリストパネスの説話で、もうひとつ重要なことは、その人間の欠如を埋めるのが、「他者の存在」であるということです。
それが、「割符」のような自己の片割れであれ、なんであれ、人間は自己の欠如を自分自身によって埋めることができないし、そのためには「他の存在」が必要不可欠である、というのです。
実際、私たち人間は、精神的にも肉体的にも、他との何らかの関係なしに生きることができない関係存在であり、他との関係の充足によってのみ、生きていることの十分な喜びを感じ取ることができる存在に他なりません。
人間が本質的にもつ「他との関係性」については、後ほど考えたいと思いますが、人間が自己の充足のために、あるいは真実の自己実現のために「他の存在」を必要とし、それを見い出すことができない時には死に至るというプラトンの人間観は、ともすれば発達した自己意識の故に自己中心的になりがちな現代の人間が深く傾聴しなければならないものがあるように思われます。

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