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人間は、それを生物学的固体として見れば、比較的大きな脳と器用に動く長い手足を持ち、社会と呼ばれる集団を形成して、ほぼ地球上の全域に生息している哺乳動物の一種に過ぎません。
しかし、人間にとって「人間」はいつも「謎」として存在しています。
それは、人間について語ることが、単に生物としての人間を語ることではなく、世界を語り、宇宙全体を考察することを意味しているからです。
なぜなら、人間はこの世界を形成し、世界を世界として認識することによって、世界をその中に集約させているからです。
だから、古来から、世界を語ることは人間を語ることであり、人間を語ることは、また、世界を語ることでした。
そして、私たち人間がこの世界の中で生き、また世界を開拓していかなければならない人間の本質的宿命を意識する時、人間は常に「問い」として、「人間とは何か」という自己意識を要求し続けたのでした。
人間は、常に、現在の人間についてのあらゆる規定を越えてかなたへと踏み出す自由を有していますし、また越え出ていこうとします。
最近の人間学では、これを人間の「世界開放性(Welt-Offenheit)」と呼んでいますが、その世界開放性の故に、人間は自己認識を必要とし、それ故にまた、人間は人間にとって常に「問い」として存在するのです。
ギリシャ悲劇を書いた紀元前5世紀のソポクレースは『アンティゴネー』の中で「不思議なものは幾らもあろうが、人間以上に不思議なものはありはせぬ」と語っています。(*1)
古代ギリシャの人々の関心は、神話的表象にしろ、自然哲学的表象にしろ、はじめは当然のことながら自分たちが生きているこの世界の構造であり、世界の成り立ちについてでしたが、やがては、ソフィストたちやソクラテスに代表されるように、人間そのものへと向けられていきました。
それは、彼らが、「人間についての明確な認識なしに、世界について語ることができない」という極めて実存的な知覚に至ったからですし、「人間」と呼ばれる生物が、そのような特性を有しているからです。
極端な言い方をすれば、今日の私たちのものの考え方の基礎を形成している西欧のものの考え方は、その「人間」から出発しているとも言えるのですが、この出発は、ある意味で、正しい出発だったように思われます。
なぜなら、人間と世界との関係は、人間にとって、常に、そのようにしてしか成立しないからです。つまり、「人間についてきちんと考える」ことなしに、私たちは、この世界や物事、様々な現象を正しく理解し、認識し、それを押し進めることができないのです。
ここでは、この姿勢を「人間学的集中」と呼びたいと思いますが、「人間学的集中」は、物事の出発にあたって必要不可欠なことなのです。
それは、諸科学がそのそれぞれの分野で急速に発達し、世界と物事についての認識と知識が膨大になった現代でも、それを促進させているのが人間である限り、変わらないことで、人間についての深い反省的考察なしに、私たちはあらゆることを進めることができないし、また、すべきではないのです。
例えば、私たちは、肉眼で見ることも、五感で感じることもできないような何億光年も離れた宇宙や世界の構成元素としての原子、生命の根源としての遺伝子などについての知識と、それを操作する技術を身につけましたが、その知識と技術は、それが人間にとって何を意味するのか、という実存的反省なしには、真実のものとはなりえないことを知っています。
それは、外国語や数学の知識が、それを学ぶことが自分にとってどんな意味があるのかということをきちんと認識することなしには、真実に自分のものとならないのと同じですし、その意欲さえわかないのと同じです。
また、実存的反省や人間学的集中なしに生み出されたものが、悲惨なフランケンシュタインの物語りや一瞬にして数十万人を殺戮した原子爆弾、身近なところでは工業排水による汚染や環境破壊、歩くことができない人間のことを無視して造られ、無用の長物となった横断歩道橋などであることを、私たちは痛みとともに認識してきたはずです。
1928年に、第一次世界大戦の悲惨な状況を体験したM.シェーラー(Sheler)は、自分の哲学の集約として『宇宙における人間の地位』を刊行して、総合科学としての「人間学(哲学的人間学)」の必要性を説き、「われわれは相互に関係しあうことのない自然科学的人間学、哲学的人間学、神学的人間学を所有してはいる。しかしわれわれは人間に関する統一的理念を所有してはいないのである。人間の研究に携わる特殊科学は次第にその数を増しているが、それらの諸科学がどんなに価値あるものであるにしても、人間の本質というものを解明するというよりは、むしろはるかに覆い隠してしまう。・・・これまで人間が歴史のどの時代においても現代におけるほどに問題的となったことは、かってなかったと言えるのである」(*2) と指摘しています。
人間について考え、人間について全体的できちんとした認識をもつことが、諸科学が進化を遂げてきた現代ほど必要な時代はない、と言うのです。
「人間学的集中」は、人間が世界をきちんと理解し、その未来を開拓して生きるために要不可欠なことであり、その意味では、古代ギリシャのソフィストの一人として数えられるプラタゴラスが語ったように、「人間はあらゆるものの尺度」に他ならないのです。
その意味では、「人間」こそが、あらゆる倫理的事柄の規範的基準であると言えるかも知れません。「人間学的集中」はその規範の根源を尋ね求め、明らかにしようとするものに他なりません。
しかし、私たちは、「人間をあらゆるものの尺度」とするには、その尺度となる人間があまりに多様で、また、弱くもろいものであり、その時々で簡単に変化していくものであることも、知っています。
人間はあらゆるものの基準として考えられながらも、基準とは成り得ない。まことに矛盾に満ちた不思議な存在であり、これを考える際には、いつでも、その二律背反が同時に考えられなければならないように思われます。
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