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1.被造物としての人間
聖書は、「人間が神によって創造された被造物である」というところから出発します。この神話的な表現は、一面では、種としての人間の誕生について、つまり、一番最初の人間は神から創造され、その次は、その誕生した人間(男と女)から生まれてきたので、人間の最初の誕生について物語っているかのように理解されてきました。自分は親から生まれ、親はまたその親から生まれ、その親はまたさらに親から生まれ、歴史の時間を逆流して、最初の親となった者は、誰から生まれたのか、人間は初めにいないのだから、これは「神」から生まれたとしか言いようがなく、それは「神話」の領域に属する、といった具合です。長い間、歴史的にもこの「人間は神から創造された被造物である」という聖書の証言は、そのように理解されてきたきらいがあります。
生物としての人間の誕生について、その最初の人間の誕生は誰も知らないのですから、これを神話の領域で語ってきたことは当然のことだと言えるでしょう。
しかし、科学的な解明が進み、人間の遺伝子の構造などの自然科学の認識が深まるにつれ、地球そのものの誕生や化学反応によるタンパク質の合成、タンパク質による有機体の形成、細胞分裂の過程などが明らかになるに従って、人間が自然の化学反応によって生じてきたものであり、歴史的・環境的適合性によって発達してきたものであることが認識され、聖書のそのような神話的人間理解は、事実とは異なる「古臭いお伽話し」に過ぎないと言われるようになりました。つまり、事実は、人間は神から造られたものなどではなく、自然の産物である、というのです。人間は原子の核融合の驚異的な産物に他なりません。
では、『創世記』の初めにアダムとイブの姿で物語られているような「人間は神の被造物である」という聖書の人間観は、科学的事実ではない単なる神話の物語に過ぎないので、現代では無意味なものに過ぎないのでしょうか。
いや、ここで、「神話は神話として理解する」という神話学や解釈学が提示する事柄を想起する必要があります。つまり、神話は、ある事柄の意味や原因を神の事柄として物語ることによってより普遍的な意味づけをしようとした物語であり、そのようにして神話を神話として受け取る時に、神話の真意が理解できる、というのです。神話の表象は意味の表象であり、数式のような事実の表象とは異なっているのですから、表面に語られた事柄ではなくて、その物語の意味と意図を知ることによって、初めて神話を正しく理解できるのです。この点では、現代の解釈学者のP. リクールは聖書の解釈の上でも大きな貢献をしたと言えるでしょう。彼は、表象として語られた言語の意味を探る道をつけてくれました。
そこで、「人間は神の被造物である」という神話的表現の意味を探ると、聖書の人間観の大切な部分が見えてきます。
第一に、「神の被造物」、つまり「神によって造られたもの」ということは、人間が神の操り人形や泥人形という意味ではなく、たとえそれがどんな人間であれ、人間が唯一のかけがえのない存在であることを意味しているように思われます。人間が、何か他のものによって産み出されたのでも、合成されたのでも、また、自然発生的に誕生したのでもなく、「神」によって造られたという人間の自己認識は、存在の尊厳とその存在には固有のかけがえのない特別の意味が付与されているということを意味しています。
たとえば、「わたしは神様によって造られた人間です」と言う時、「わたし」は、もちろん両親の性行為によって誕生したことを知っており、両親の遺伝子を受け継いでいることを知っているのですが、そのようなこととは無関係に、「わたしは神様から特別の意味を与えられて生きている」という確固とした自己認識がそこにはあります。
つまり、人間はそれぞれに他と取り替えることができない固有の意味を持って存在しているということが、「神の被造物である」ことの第一の意味なのです。そして、それがどんな意味かは別にしても、「ひとりひとりが意味を持って存在している」「計り知ることができない固有の意味を持って存在している」ということが、それぞれの人格や存在への尊厳を生んでいきます。ここには、人格や存在の尊厳を絶対的に根拠づけるものがあるのです。
ここには、また、自己の存在の根源を、自分の血縁や社会、環境や自然、あるいは自分自身にすら置くのではなく、それらのいっさいを超えた「神」に置くというある種の超越関係における自己認識があります。従って、存在の意味もまた超越における絶対的意味として見いだされていくのです。つまり、「神の被造物」ということは、存在の意義の根源を「神」に置くということに他ならないのです。
旧約聖書の『創世記』の初めに物語られる「天地創造神話」は、当時のバビロニアやメソポタミア地方に広く流布していた世界創造神話を基に、紀元前6世紀頃に、古代イスラエルの人々がバビロニア帝国に滅ぼされ、大多数の人々が捕虜としてバビロニアに連行され、そこでの生活を余儀なくされるという状況下で記されたものだといわれます。
国を失い、家や家族を失い、あらゆるものを失う捕虜としての生活の中で、人々はうなだれ、失意の内に、「神さえも私たちを捨てた」と思えるような状況下で、つまり、いっさいの生の根拠が失われた時、心ある人々が、「生の根源は神にある」と述べ伝えたのです。社会も政治も経済も、自分自身でさえも、いっさいのものが「過ぎ去るもの」として簡単に崩れ落ちていく中で、「生の根源は神にある」と宣言するもの、それが「天地創造神話」の意図するところに他なりません。
「神がわたしを造られた。わたしの根源は神にある。」聖書の人々はそう認識したのです。
第二に、「神の被造物」ということが意味することは、人間の平等性と有限性ということでしょう。有限性とは、人間は限界を持って存在しているということを意味しています。
人は、一般的な意味で、不平等の中に生まれ落ちます。それぞれに与えられている能力も環境も異なり、この相違は社会的不平等として実感されます。ある者は衣食住に不自由しない所に生まれ、ある者は飢えと寒さの中で生まれ落ちます。生命の長さもまたそれぞれに異なり、100年生きる者もいれば、生まれ落ちてすぐに命の火が消え去らなければならない者もいます。それぞれが与えられている能力も異なります。人間は決して平等ではなく、不平等の中を歯を食いしばって生きなければなりません。「平等」は社会的な概念ですが、その社会的な概念が人間存在には大きな意味をもっているからです。
こうした人間存在の不平等性を少しでも是正しようとして、現代の民主主義は、「法の下での平等」をその根幹にすえましたが、法は社会の最低限のルールであり、存在そのものの平等性を規定するものではありませんから、人間存在そのものの不平等性の解決には至り得ないのです。
しかし、聖書は、王であれ奴隷であれ、能力の有る無しに関わらず、人は等しく「被造物(造られたもの)」に過ぎない、というのです。それは「高ぶる者を低くし、低められた者を高める」人間観だといえます。人は等しく神の前に立たせられる者に過ぎないというのです。人間存在の限界の認識、それが「被造物」という概念の意味するところなのです。
そして、「人間は等しく被造物に過ぎない」と言うことによって人間存在の限界を認識するところでは、存在に対する価値観の根本的な転換が起こります。つまり、社会の中での人間は、その社会的な意義によって価値を認められたり認められなかったりしますが、人間の価値をそのような社会的な意義によってではなく、「神の前にただ一ひとり裸で立つ」ところに認めるということが起こるのです。たとえどんなに大きな偉業を成し、人々に貢献した者であれ、善行を積んだ者であれ、あるいは無為でその生を終えなければならない者であれ、罪を犯した者であれ、等しく神の前に立った時に、はたしてどうなのか。その認識によって人間の価値が計られていくような価値の転換が起こるのです。
このようにして、「被造物」という聖書の人間観は、人間の固有の存在と人格の尊厳性を高らかに宣言し、存在の意味と根拠を指し示し、人間存在の平等性と限界を認識させる人間観であると言うことができるでしょう。
2.神の像としての人間
聖書は、被造物としての人間が、また、「神の像」であることを語ります。
「神の像」という言葉は、創世記1章27節の「神はご自分にかたどって人を創造された」という言葉に由来する言葉で、文字どおりには「神の形(姿)に似せて」というほどの意味です。この言葉が、ラテン語で「イマゴー・デイ(Imago Dei)」と表記され、「神のイメージ」という意味で理解されてきました。
そして、「神のイメージ」とは何か、ということで、例えば、精神をもつとか、あるいは言葉を語るとかいった人間の特性、特に精神的な特性があげられてきました。
しかし、創世記第1章の天地創造神話は、元々は古代バビロニアの世界創造神話を元にして旧約聖書の神信仰を明瞭に表すために記されたものですが、当時の古代社会一般では「神の形(姿)」、あるいは「神の像」とは「王の称号」を表すために用いられていた言葉だと言われています。
つまり、「神にかたどって(神のイメージで)創造された」とは、「人間が王として創造された」ということでもあります。そして、その言葉には、王が持つ自由と尊厳が意味づけられています。「神の像」には、「何者にも隷属しない自由な者」という意味が込められているように思われるのです。
人間は、社会的な身分や生活環境が何であれ、たとえ奴隷であれ捕われ人であれ、その本質において自由な存在であるということが、聖書が「神の像」で示す人間観の第一のものなのです。もっとも、聖書が語る「自由」ということは、もう少し厳密にする必要がありますが、人間が神以外の何者にも本質的に隷属しないということの強調が「神の像」だと考えてもいいように思われます。
人間は、その不平等性の場合と同様、本質的な存在形態においては不自由な存在です。人間は、実にさまざまな事柄から束縛を受けて生きていますし、ある一定の制限をされた限界状況の中でしか生存することができない存在です。物が物理的・空間的に存在しているということは、その存在自体に何らかの制約が働いているからですし、生命活動が行われているということも、生命が一定の生理的な条件の下に置かれていることを意味しています。あるいはまた、人間は社会的な存在ですので、その社会からの制約も受けて生きています。
このような生物としての存在形態を、人間は、通常は無意識のうちで、ある特定の状況下では意識的に、人間存在の不自由さとして認識します。
しかしまた、これらのものから自由になるという自由も人間は有しています。それは、物理的、生理的、社会的制約を不自由さと感じるのではなく、反対に喜びを持ってそれらを受け入れることができる時に起こります。「あらゆるものに仕える者であると同時に、あらゆるものに隷属しない」という自由において、人は自由な存在でもある得るのです。
聖書が、「人間は神の像である」という時、それは、人間が何者にも隷属しない自由な存在であるということを宣言するものですが、それはまた、人間が自由な精神をもつものであること告げるものでしょう。従ってそこには、人間が精神的存在であることの意味が含まれています。それが、「神の像」の第二の意味でしょう。
人間が精神的存在であるという人間理解は非常に古くからありました。古代ギリシャ哲学が、物の世界の解明から自然科学への道を開くと同時に人間を精神として理解することを深めたのはよく知られていることです。しかし、それ以前にも、古くから「霊」や「魂」といった精神概念は神話の世界にも登場しますし、古代エジプトやメソポタミアでもよく知られていました。また、人間を精神と肉体の二つに区分して考えることも古くから行われていました。
旧約聖書の『創世記』第2章7節でも「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」と記します。アダマ(土)がアダム(人)になるのは神の命の息の働きそのものです。つまり、人が生きる者であるのは、神によって吹き入れられた「命の息」によるのだ、というのです。
この「息」と訳された言葉は、ヘブライ語では「ルーアッハ」といい、霊や風や息といった目に見えないが確かに存在する力、言ってみれば目に見えないエネルギーを表す言葉で、後にギリシャ語で同じ意味を持つ「プニューマ」と訳されました。しかし、これをもっと後に英訳します時に、霊を意味する「ゴースト」と訳してしまったところに問題があるのではないかと思っています。そのために、何か得体の知れない幽霊のような霊的存在のようになってしまう誤解が生じたからです。むしろ、英訳では、精神を表す「スピリット」の方が適切のような気もします。
しかし、いずれにしろ、人はその姿形ではなく、「命の息」によって生きているのであり、外面がどうであれ、その内に神の命の息を宿しているかどうかが問題であり、それが生きていることと死んでいることを区別する分水嶺であると言うのです。
人間は、たとえ見かけがどんなに立派であったとしても、あるいは貧弱なものであったとしても、値高く見えようとも、欠けていても、等しく土の器に過ぎず、人間の価値は、そのような器の外見にあるのではなく、器の中身、器の中に入れるもによって決まるのであり、神の命の息を入れることによって、初めて生きた者となるのだ、という自己認識が、ここにはあります。おそらく、旧約聖書の人々は、たとえ身分は奴隷でも、あるいは捕虜の身であっても、力が弱くても、能力がなくでも、「自分は神の命の息を宿している人間である」という自己認識があったに違いないのです。
古代ギリシャの哲人ソクラテスは、「ただ生きることではなく、より良く生きることが問題だ」と語りましたが、人間は、ただ生物として生きるだけではなく、その内面の精神によって人間となるのです。人間が「命の息によって生きるものとなった」ということは、人間が「精神」によって生きるものであるということでもあります。
人間の生命は、確かに、生理学的な細胞の諸活動によって維持されています。現代の医学でも、少なくとも脳の生理的な活動をもって生命の生死の判断をします。しかし、生理的な活動が維持されて、医学的、生理学的に生命の活動が保持されているからといって、それと人間か生き生きと人間として生きているということとは、各々、別の次元に属することです。
たとえば、どんなに衣食住が満ち足りて、生物として生きることの条件が十分に満たされていたとしても、人は、もう死んでしまいたいと思ったり、「生ける屍にすぎない」と思わざるを得ないことがあります。反対に、生理的な生命活動が危機に瀕していたとしても、生きることの喜びを感じることができることがあります。そこに、人間が「生きる」ということの不思議さがあるのです。
通常、「生きている」ということを考える場合、おおまかに言えば、私たちは二つの次元で考えています。一つは、他の動植物と同じような生理的な生命現象をいう場合です。医学や自然科学が取り扱う生命現象です。しかし、それだけで「生きている」ということが言えるかどうかというと、人間の場合には、もう一つの次元が必要であり、それが精神の次元です。そして、人間の場合は後者の次元の方がはるかに重要です。
古代から、人間を「肉体と魂(精神)」の二元論の枠内で考えてきたのは、人間が単に肉体的、生理的な生命だけで生きているのではなく、魂や精神と呼ばれる次元で生きているからです。そして、聖書や古代ギリシャ哲学は、ほとんど直感的に、人間が精神によって生きるものであることを知っていたのです。
人間は、肉体がどんな姿であれ、生き生きとした生命を感じるような精神の崇高さをもつことができます。そして、その最も崇高な精神が神の精神(霊・命の息)であり、人はその精神を神から与えられ、自らの内に宿して生きることができる。それが「神の像」という聖書の人間観の意味するところです。
また、人間の精神は交わりによって形成されていきます。先に述べました「生ける屍」といった絶望的な状態に横たわっているものを探っていきますと、その多くの場合は、誰か他の人との愛や信頼といった人格的な交わりや関係が破壊されていたり、失われていることに気づかさせられます。人間が感じる死の恐怖は、愛と信頼の人格的な交わりが肉体の死によって完全に断たれてしまうことへの恐怖と一体のものです。反対に、たった一人でもいいから、自分を理解し、信頼し、かけがえのないものとして愛してくれる人が見いだされ、その人との人格的交わりがある時、人は、「生きたい」と確信することができます。
デンマークの哲学者S.キルケゴールが『死に至る病』の冒頭で、「人間とは精神であり、精神とは関係の関係である」と語ったように、精神は関係概念であり、人間は、諸関係によってのみ生きることができるという関係存在なのです。
それ故に、聖書は、「神の像」ということで、人間が神との生き生きとした交わりによって「生きたもの」となることを伝えます。
このことは、例えば、『創世記』の創造神話の中にでてくる最初の人間、アダムとイブを罪へと誘惑したヘビの言葉に中にも象徴的に表されています。
ヘビはイブに「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と尋ねます。そこで、イブは「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神さまはおっしゃいました」と答えます。するとヘビは「決して死ぬことはない.それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」と言うのです。
ヘビの言葉は人間の人格的な生命への疑いの声です。ですから、アダムとイブは、「神が、食べると死ぬと言われた」木の実を食べますが、ヘビの言うとおり死ぬことはありませんでした。しかし、彼らは、神との信頼によって生まれる人格的生命を失ったのです。ヘビが語ったのは、生物学的な生理学的生命に過ぎませんでした。生理学的に生きていたとしても、精神的人格的な生命を失い、その結果として、生きることそのものの苦労を重ね、塵に帰る空しさに覆われるのです。
アダムは、以前には自分の身体の骨の骨、肉の肉とまで呼んで一体感をもったイブを、神との約束を破った責任を転嫁する対象として、「この女が」とさえ呼んでいます。それはアダムとイブとの人間的な信頼関係の崩壊を意味する言葉です。神との交わりを失った人間は、隣人との愛と信頼の交わりも失い、自らの生きる場所を失ってしまうのです。虚無の根源は、人間の人格的生命、つまり、人格的な交わりの喪失と深く関係しています。
聖書は、人間のこの状態を「罪」という言葉で表しました。人間はかけがえのない大切な存在であり、自由であるが、同時に罪を負うものでもあるのです。
3.「罪あるもの」としての人間
聖書が人間を見る場合、人間が他と変わることができないかけがえのない唯一独自の存在であり、すべてを意志によって決定することができ、何ものにも束縛されない自由な存在である同時に、その人間が、自らの生きる場所を失うような「罪」を背負って生きなければならない存在であることを伝えます。
最初の人間アダムとイヴが生きる場所として与えられた「エデンの園」には、園の中央に「取ってはならない」といわれた「善悪を知る木」が置かれます。それは、取ることも取らないことも、人間の自由な意志の決定に委ねられていることを示すものでした。「取ってはならない」と言われたものを取るかどうか、そこに善悪の判断があったのですし、それが置かれることによって人間の意志の自由が保障されていたのです。
しかし、アダムとイヴは、この「してはならない」と言われていたことを、自らの自由と豊かさの保証としてではなく、自らの限界として受け止め、これを犯してしまいます。
このことは、ここで語られていることの問題を検討するとよくわかります。その問題の一つは、この神との約束の破綻の行為が、自らの意志の決定によったのではなく、「ヘビ」の誘惑に従った行為だということです。
彼らは、与えられた自由な意志を放棄し、巧みな誘惑の声に従います。見た目に美しく、食べるに美味しそうに見えるものによって、自己の生き生きした生命の根本を失うのです。それは、先述しましたように、神との関係、人間と人間との関係の破綻を意味しています。
「罪」は関係概念に他なりません。
「罪」を表す言葉は、簡単な英語でも法などを犯す犯罪行為を「crime」、宗教的、あるいは存在論的なものを「sin」と呼んで、いくつかに使い分けがなされていますが、その概念の元々の意味は、関係の破綻の状態をさすように思われます。
このことは、たとえば、「殺人」という罪を考えてみるとわかるのではないでしょうか。殺人がなぜ悪かといえば、それが法律に禁止されているから、それを犯すのを罪というとき、それは殺人を「crime」の段階で考えているからで、その場合は、法が変われば、それは罪とは呼ばれません。戦争で敵を殺すことは、むしろ英雄的な行為として賞賛されたりもします。
あるいは、殺人を犯すと良心の呵責があるからという時、それは殺人と言う行為を「sin」のレベルで考えているわけですが、連続殺人を犯しても、良心の呵責を感じない人がいることもよく知られている事実です。
そうなると、殺人を絶対的に罪とする根拠がなくなります。しかし、殺人はやはり絶対的に罪なのです。生物学的に種の保存に反するから、という言い方もできるかもしれませんが、殺人が罪なのは、その行為によって関係の破綻の回復が絶対的に不可能になるからです。殺人によって、もはや二度と取りかえすことのできない関係の破綻が生じてしまうが故に、殺人は最も重い罪なのです。
人間は、本質的に「関係」なしに存在し得ない関係存在であり、その生きる根拠も「関係」の中にありながらも、その関係が破綻し、その根拠を失ってている状態、これが「罪」に他なりません。
神はアダムとイブに告げます。「これから後、あなた方は、額に汗して働き、産みの苦しみを覚えるだろう」と。それは、労働や出産、あるいは生きることのすべてに意味を見いだすことが難しく、すべてが空しく終わっていく(死)となることを意味しています。
5世紀のアウグスティヌスは、かつて、これを人間の遺伝的特質と考えましたが、罪は、むしろ、人間の存在論的な本質だと言えるでしょう。人間は、その本質である「関係」を自ら破綻させ、生の空しさを抱えて生きなければならない存在に他ならないからです。
旧約聖書の『コヘレトの言葉』は、「なんという空しさ.何という空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう。」(1:2ー3)とさえ語り、生きることの空しさを訴えます。人は、自分の髪の毛を自分でつかんで自分を引き上げることができないように、この生の空しさから逃れ出ることができないのです。しかしまた、それ故にこそ、生きることの意味を求め、生の充足を求めて生きなければならない存在でもあります。
従って、聖書が、人間を「罪を負うもの」として考える時、それは、人間が自ら「生きること」を考えなければならない存在であり、人生の意味を自分で見いだし、創り出していかなければならない宿命を負っている存在であると考えているように思われるのです。「額に汗して働き、産みの苦しみを覚える」存在に他なりません。
その意味では、「罪あるものとしての人間」というのは、たとえばプラトンが人間を本質的な欠如感をもつものとして理解したことと重複するものだと言えるような気がします。そこから、プラトンは自らを「永遠の求道者」として位置づけましたが、むしろ、アダムとイブがエデンの園を追放されたように、「永遠の彷徨人(さすらいびと)」なのかもしれません。
そして、人が真実の関係の回復を為しえるところで人生の意味が見いだせることを聖書は示唆しようとします。ことに、新約聖書において、イエスが指し示した「罪のゆるし」やパウロが明示した「罪人にして同時に義人」という人間観は、真実の関係が回復される道筋を示す人間観だと言えるでしょう。
人間は、被造物であるが自由な存在であり、罪人であるが同時に罪ゆるされた義人でもあり、関係を破綻させるものであるが同時に愛と信頼の関係を持つものでもある、というのです。この二律背反的な存在、それが「人間」だというのが、おおまかに、聖書の人間観だと言っても良いかもしれません。
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