K's Community 現代倫理学概説

その14


<他の人間との共生>

 人間が本質的に関係存在であるということは、単に、自然や環境、他の動植物との関係においてではなく、最も端的には、その存在の本質的問題として、他の人間との関係において自覚され、また、現れます。
私たちが感じる日常の喜怒哀楽の感情も、生きていることの充実感も、幸も不幸も、すべては他者との関係性の中にあるし、それだけではなく、もっと本質的に、人間は、自分の中の内的他者を含めて、自分以外の他の誰かとのかかわり合いの中でのみ、その存在を可能にすることができる生物に他なりません。
暗黒の宇宙の孤独において、たとえその生物学的生存の条件が整えられていたにせよ、孤独に置かれた人間が、やがてその心理状態に異常をきたし、生存そのものの意欲を失い、死に至ることはよく知られていることです。
わたしたち人間は、決して独りでは生きることができない生物であり、初めから他者との共存を必要としているのです。
人間の自我意識(エゴ)そのものが他者の存在なしには成立しないことを、人間は自覚する必要があるように思われます。
近代西洋思想は人間の自己意識を発達させ、「自己」から物事を考えていくことに道を開いてきましたが、その「自己」そのものが「他者」を含めることによって、初めて成立しているものであることが認識されなければならないのです。
 それでは、人間は、本質的にその他者との関係性をどのように持っているのかと言えば、20世紀を代表する哲学者の一人であるM.ブーバー(Buber)の分析を借りて大きく分ければ、相手を自分と同様な人格を持つものと認め、呼びかけ、また、相手の呼びかけに答えるような「わたし - あなた」の人格的関係と、相手をただ単に「それ」として対象化してしまう「わたし - それ」の客観的関係の2種類の関係を持って存在していると言うことができるように思われます。
この2種類の関係は、実際には極めて流動的で、同一人物を、時には、「あなた」として呼びかけ、時には「それ」として取り扱ったりしますし、たとえば、恋愛のような熱烈な深い応答関係にある者どうしは、互いに相手を「あなた」と呼びかけ合いますが、その熱情が冷めると同時に、相手はただの「それ」へと転落してしまいます。
また、たとえば、形見の品や思いのこもった贈り物のように、それ自体は単なる物質に過ぎませんが、それがある特定の人格を呼びさますような物である場合は、その物質は「あなたの代用品」、もしくは、「あなたそのもの」として存在します。 そして、恋愛に代表されるように、相手を「あなた」として呼びかけ、また、その呼びかけに答えようとする時に、人間は実にいきいきと生の喜びと生きていることの実感をかんじることができますが、「それ」として取り扱われる時には、いきどうりや言い様のない寂寞感を感じ、絶望的な気分になります。
失恋の痛みは「あなた」から「それ」へと転落する存在の喪失感であるとも言えるのです。
 現代人は、多くの場合、本来、人間がその生を実感できる「わたし - あなた」の関係を、いつの間にか、システムの効率化や合理性の名の下に「わたし - それ」の関係にすり替えてしまいました。
「マス(大衆)」と呼ばれる顔のない人々の集団、固有の名前ではなく番号や記号で取り扱われる個人、大学受験偏差値や所得などの比較可能な数値で表される人間の生命の価値や評価、数え上げればきりがない程の「それ化現象」が、わたしたちの生活の隅々にまで行き渡り、忍び寄って、「それ化」による虚無の深淵の口をぽっかり開けています。
その中で、たとえば、最も計りがたい、また計るべきではない「愛情」をプレゼントの金額で計ったり、人間や人生の価値をその収入で計ったりするような愚かなことを平然と行ったりしてしまいます。
こうした「それ化現象」の中では、人間が生きることを根本的に支える「わたし - あなた」の関係の成立がほとんど不可能になり、人間は生きることの意味を喪失して、ただ単純な「気晴らし」に没頭せざるを得なくなってきているのです。
 しかし、人生を「喜怒哀楽」として表現してきたことには、まことに意味があり、人間の生きることの深い意味が、その「喜怒哀楽」を成り立たせる「わたし - あなた」の人格的・共生的関係の中にこそあるということを明瞭に認識するところでは、人間は固有の人格として、他の誰とも比較の対象にはならない「全宇宙の中のただ一人のかけがえのないその人自身」として存在するのです。
そして、その自己の「かけがえのなさ」が自覚される時、人は、たとえその置かれている状況がどのように悲惨なものであれ、「生きていることそのものが嬉しい」という生の充実感を感じることができるのです。
そのような「存在の受容と承認」は、人間がよりよく生きるための不可欠な要素に他なりません。
 この人間の生に不可欠の「わたし - あなた」の人格的共生関係は、具体的には「対話」という行為によって成り立ちます。 「対話」は、なにも言葉による「会話」だけを意味しているのではありません。言葉に表されない「以心伝心」ということもありますし、アイ・コンタクトという無言の「対話」もあります。
また、沈黙における自己自身との「内なる対話」もありますし、「祈り」といった「神との深い対話」もあります。
そして、それらのいずれにしても、「対話」が、呼びかけによって始まり、その呼びかけに答えようとすることから成り立つことを示しています。
しかも、「対話」は、単に「わたし - あなた」の関係が「呼びかけ」と「応答」といった単純な平行関係によって成り立つのではなく、常に何かある新しい了解に向かっていく関係の「運動」でもあります。
ソクラテスが当時の知者と自認したソフィストたちを相手に、相手の持っているものを引き出していくという「産婆術」を展開し、プラトンがそれらを「対話」として表示したのは、「対話」が、常に新しい了解としての「真理」に向けられた弁証法的運動を、その「対話」の潜在的エネルギーとして内在させているからに他なりません。
 従って、「対話」は、まず第一に、その対話によって得られた結果としての段階的な了解事項に対して、その了解事項がたとえ段階的なものでしかないにしても、常に誠実であり、それを共有しようとする姿勢によって成り立つのです。
通常、「対話」や「会話」の意味で使っている「コミュニケーション」という言葉は、「共にする」とか「共有する」、「共同」、「交わり」を意味するラテン語のコミュニカティオ(communicatio)、コミュニコ(communico)やコミュニオ(communio)といった言葉から派生した言葉で、ものごとを共有し、その共有する人と共に生きようという姿勢を前提に持っています。
それ故、「対話」の進展に従って得られてくる結果を、段階的にではあるが、お互いが了解し、共有し、その結果に誠実であろうとすることによって次の段階に進んでいくことができるような、いわば精神の共同作業が、「対話」を「対話」として可能にするのであり、「対話」に不可欠な要素は、その精神的共同作業を可能にする「誠意」に他ならないのです。
この点が、単に自己の正当性を主張して論争しあうディベートやおしゃべり(チャット)と「対話」を明瞭に区別します。 ソクラテスも、「対話」によって得られた了解事項を無視しようとする不誠実な相手に対して、「あなたがそのような態度を取られるなら、私たちの対話はこれで終わりです」といって対話の終わりを宣言しています。
 第二に、人間関係における誠実さや誠意といったものは、相手の存在を十分に認知すること、そして、その相手が、たとえどのような問題点や矛盾を抱えていようとも、相手に対する先入観やいたずらに貼られているレッテルを捨て、自分の精神的共同作業のパートナーとして十分な尊敬と尊重を持つところから生まれてきます。
従って、「対話」が起こるところでは、すでに「わたし - あなた」の人格関係が成立しているし、「わたし - あなた」の人格関係が成立しているところでのみ「対話」が可能となると言えます。
 こうして人は、「対話」によって、新しい自己自身を形成し、またそれによって人間の根源的な共生関係を形成するのです。
「対話」は、情報科学が発達し、地球規模で、その隅々に至るまで知ることができるようにつれて生じてきた問題、−人種、文化、宗教、思想、生活習慣、性などの相違の問題、人間が置かれている環境的不条理からくる相違の問題など−を、その相違を十分に受け止めつつ、それらを何一つ問題視することなく、いわば、生身の一人の人間として、互いに向き合い、あるいは同席し、「わたしとあなたによる共同作業」として、新しい人格的共生関係が成り立つような世界の形成を可能にするのです。
 ここまで、私たちは、人間を「生物」、「知性」、「関係存在」の概念において見てきましたが、先にも述べましたように、紀元前5世紀頃に書かれた「創造神話のアダムとイブ」に代表されるような聖書の人間理解は、今日の人間理解に重要な影響を与え、また、人間を理解する上で極めて意義深い諸概念を提示しています。
聖書は、単にユダヤ教(旧約聖書のみ)やキリスト教の宗教的聖典であるだけではなく、長い歴史的過程を持つ歴史の証言の記録であり、その意味では「生の人間」の物語でもあります。
そして、西洋精神史の巨大な源流であり、今もなお流れ続ける大河に他なりません。
その意味で、その人間理解を見ることは、人間を考察する上で意義深いことであろうと思われますので、ここで、その人間観を若干見ておきたいと思います。

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