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近代科学による自然の法則とその構造についての諸発見は、人間にとって、あらゆることがらについての合理的思考を促し、合理的に証明可能なことがらだけを客観的事実として認識する思考形態を形成してきました。
そこで、あらゆることがらについての研究は、数学と数理的に計算が可能なことに基づく諸科学、現象学と構造の解析が中心となり、そのような思考を行うことを、人は、「理性的である」と考えるようになってきました。
音楽や絵画といった、本来、人間の感性に属することまで、構造が解析され、数理的に計算され、論理が組み立てられています。
たとえば、ある子どもが一枚の絵を描き、それを大学の教授が、その心理分析を含めた解説をしたとしましょう。
絵を描いた子どもの感性とそれを論理的に解説する解説者との間にはその実存の姿に大きな隔たりがあるにも関わらず、そして、単に他の誰かの解説をするということよりも、実際に絵を描くという創造的な行為をすることの方が、実存的には、はるかに貴重であるにも関わらず、人々は論理的に解説された方を「理性的」と考え、その解説の方を尊重してしまうようにもなってきているのです。
実際に絵を描いた子どもの感性と解説の間には大きな隔たりがあるのですが、人が信頼を寄せるのは解説の方です。
そしてさらに言えば、「存在するかわりに創作し、ただ空想の中だけで善と悪を問題にし、実存的にそれであろうと努力しないような」(S.キルケゴール)詩人や学者を「理性的人間」であるかのように混同してしまってきています。
それは、科学的に証明されることだけを合理的に考え、それを「理性的である」とみなしてしまうことで起こる錯覚が生み出す奇妙な現象の一つと言えるのではないでしょうか。
人間の理性は、近代諸科学とその結果が証明するように、確かに、論理的で合理的であることを要求します。
「理性的である」ということは、誰にでも理解が可能であり、説明ができるということであり、そのためには論理的でなければならないのです。
その意味では、「理性的である」ということは「普遍的」でなければならないのです。
しかし、デカルト以来の近代的認識論の形成によって、ものごとを主観的に認識する主体と客観的に認識される客体とに分けて二元論的に考えるようになり、客観的であることが普遍的であることだとみなされることによって、「理性」と「客観性」が同一視される傾向を持ってきたのです。
そして、合理的客観性がますます強調されるに従って、その主体である人間自身が忘れられ、人間なき客観的知識が一人歩きし、知識と人間性の分離が行われてしまったのです。
最高の知識教養を身につけているはずの大学生や卒業生、さらに大学の教員が犯す社会的犯罪、日本の教養人の一人でもある政治家が起こす権力闘争と収賄、など、一流の知識を持ちながらもその人間性を欠如させている例は後を絶ちません。
「理性的である」ことは、本来、その人間性が豊であることを意味していましたし、理性を持つことを強調したのは、人間として豊かになるためでした。
知識を獲得するのは理性的判断の枠を広げ、それによって豊かな生を獲得するためでした。
しかし、現実には、人間が獲得した知識と技術によって、その知識と技術の故に人間自身が滅びに向かう現象が生じてきています。
「知は力」(F.ベーコン)であり、理性は合理的知を求めますが、「理性的であること」を「客観的合理性」と混同し、獲得された知識と技術だけを振り回すと、その力によって人間自身が滅びるという矛盾に陥るのです。
まことに、人間の理性は、その用い方によっては、悪魔にも天使にもなりうるもののように思われます。
そして、さらに明確に言えば、悪魔的理性は、まだ「中途半端な理性」でしかないということです。
なぜなら、理性は、その理性全体が向かう方向を正しく定めることをもってその完全な姿を整えるからです。
物事の単なる客観的事実の知識だけに基づく判断は、まだ「中途半端」であり、問題はその判断の方向性が指し示されなければならないのです。
原子物理学の知識は核兵器を生み出しましたが、核兵器を造ることの是非が問われなければならないし、遺伝子についての生物学の知識はクローンを製作可能にしましたが、その是非が、さらに問われなければならないのです。
獲得された知識と技術によって人間が滅んでいくような現代は、その「中途半端な理性の時代」であり、「知」によって振り回される時代だからこそ、人間の理性が向かう方向は、さらに深く検討されなければならないのです。
そこに哲学と倫理学、そして神学の課題があるように思われます。それらは、人間の理性のあり方を明瞭に規定することを最大の課題とするからです。
理性の働きを規定するもう一つの問題は、人間の理性を人間の自然性に対抗させ、その自然性を否定するものとして位置づけてきたところにあるように思われます。
ストイシズムの影響もあって古代ギリシャ人は、一般に、理性を自己の際限のない欲求を抑制するものとして理解していましたし、近代理性の本質を考察したI.カントもまた、理性を人間の自然性に対抗するものとして位置づけ、特に、人間の自然的本能の傾向に抵抗するところに理性の働きを認めていました。
確かに、人間の自然的本能はすさましく、それを野放しにしたままでは、種としての人類全体の存亡の危機がいとも簡単に訪れることは明らかです。
個人の生にしても、欲望に身を任せた人間が滅びを迎えることは必至ですし、また、人はそのすべての欲望を満たすことが不可能であることを実感として知っています。
自己の欲望に対して、生理学的にも生物学的にも、そして精神的にも、人間は限界を持っています。
人間は生存のための器質的欠陥を持って誕生し、その欠陥を精神的行為によって補うことによって生き延びることが可能な生物であり、その意味では、理性は、人間自身が生き延びるために不可欠な自己の欲求をコントロールする力として備えられた能力であるといえます。
そして、理性は各個人の自覚と責任において発達する能力であり、各個人は、その欲求をコントロールする力としての理性を発達させる責務を負っています。
しかし、長い間、特に西欧の精神的風土において、理性は人間の自然的本能の傾向に対抗するもの、あるいはもう少し広い領域で、人間の自然性を否定するものとして位置づけられてきましたが、そのことによって、人間の「ありのままの姿」を否定する傾向をもってきたのです。
風土的にも、気候的にも人間が生存することが厳しく、自然条件が過酷な世界にあっては、自然は人間を包み、これを生かしている豊かな環境では決してなく、むしろ脅威であり、人間がなんとか克服しなければならない対象になります。
そのような世界では、この対象としての自然を克服するのが人間の「理性」であると考えられるのは当然のことで、その自然の中に人間の自然性も含まれ、これを否定する傾向を生んできただろうと推測されるのです。
人間は自分と自分の環境を自分で開発しなければならない宿命の下に置かれて生存していますので、自分の環境の開発を人間の最大の能力である「理性」で行うのは、人間にとって最も有効な手段に違いありません。
しかし、問題は、その自然性の否定の傾向がさらに進んで、どこかにいつも、理性の名の下に考えられた人間の理想的な「型」があって、その「型」に現実の人間を合わせようとし、足りない部分を引き延ばし、はみ出た部分を切り取って、なにか窮屈で歪んだような、生の喜びからはるかに遠く、いつも出口のない行き止まりを感じなければならないような、そのようないびつな人間を形成してきたことです。
「理性的である」ということによって人間の自然性を否定し、そのことによって、かえって人間性を損なってしまうという結果が生じて、実際に、現代人は、絶えず何かに追いまくられるように、せかせかと生きざるをえなくなっています。
人間の自然性、つまり、「人間のありのままの姿」を認めなければ、生きることは、ただ窮屈で、鉛を背負ったように辛く感じられるだけです。
そして、切り刻まれた人間は、当然その生命を落とします。
こうした理性は人間を冷徹にします。
あらゆることがらの矛盾を認めず、ただ客観的合理性だけを追求し、自分の人間としての自然性を否定し、それによってかえって自分を殺してしまうような理性は、まさに、「氷りのように冷たい理性」に他なりません。
現代人は、この「近代的冷たい理性」の犠牲になってきたと言っても過言ではないようなきがします。
それ故、もう一度、人間の理性のあり方を深く体系的に検討し、客観的合理性を追求しつつも、矛盾と限界を認め、人間の「ありのままの姿」を受容し、そこからすべてを始めていくような、そのような人間の生のあり方を構築するような、いわば「暖かい理性」を再考する必要があるように思われます。
「暖かい理性」とは、自然と存在を受容する理性であり、人間がその精神の最も貴重で偉大な行為として認識してきた「愛することと信じること」を根底にし、それを隅々にまで行き渡らせるような人間のあり方を育む理性に他なりません。
あらゆる学問を発達させ、人間の可能性を広げ、自己の環境の開発を試みる理性の全体の枠を、そのような「暖かい理性」によって規定することで、人間は今以上に生き生きと自由で大胆に生きることができるのではないでしょうか。
かつて、古代ギリシャの哲学者エンペドクレスが、万物の生成の原理に「愛」を位置づけたように、理性の総合的枠を「愛」によって構成するような、そのような理性のあり方が、現代の課題のように思われます。
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