K's Community 現代倫理学概説

その10


<「理性」理解の変遷とその位置づけ>
(その2)

 古代ギリシャ思想を代表するソクラテスも、プラトンも、アリストテレスも、その理性理解においては、厳密にはいくつかの相違があるとはいえ、人間の理性に対して絶対的とも言える程の信頼をおいていたことに違いはありません。
しかし、それが古代ギリシャ人のものの考え方の全体的風潮を表しているかといえば、決してそうではなかったことに注意する必要があります。
むしろ、一般的には、ソフィストたちに代表されるように、世界は単なる個体の集合体に過ぎず、万物は絶えず変化(流転)し、善悪の基準は人それぞれであるといった相対主義的であり、物質主義的であり、理性よりも欲望、知よりも力を求める傾向をもっていたのです。
ソクラテスやプラトン、アリストテレスは、こうした傾向と戦いつつ、その「理性」を確立していったのです。
理性は、それが聖なるものと呼ばれる程のものになるためには、現実におけるこのようなものとの戦いが必要なのかも知れません。
 次に、理性が、歴史上、最も強調されたのは、ルネッサンスを経た西欧啓蒙主義の時代ではないかと思われます。
 人間の自由と文化の明るさを求めたルネッサンスの標語は「古代ギリシャに帰れ」でしたが、そこで人文主義者たちが憧れたのは、何と言っても、宗教的束縛を受けない理性の自由そのものでした。
そして、その理性の自由が謳歌され、できる限り客観的知識に基づいた理性的判断ができるように人々を教育し、社会全体を理性によって導こうとしたのが啓蒙主義でした。
I.カントは、啓蒙主義を「大人となること」と呼んでいます。「啓蒙とは、自分の負い目である未成人性からの出離であり、未成人性とは、他の人の導き無しには自分自身の悟性を用いることができないことである」、と語り、悟性、つまり理性の自由な行使こそが啓蒙主義の特質であり、それが人間としての成長した姿であることを明白にしています。(*17)
言い換えれば、啓蒙主義は「理性的であることは人間的であること」であると主張したのです。
 しかし、そこで考えられていた「理性の自由な行使」の内容は、現実世界をそのあるがままの姿で観察し、自然世界が成立している法則を見い出し、神秘的にではなく科学的・合理的に判断し、世界を技術的に克服しようとする姿勢に他なりませんでした。
それは、根本的には、古代ギリシャ思想における「理性理解」の近代的焼き直しであると言えるかも知れませんが、大きな相違点は、古代ギリシャ人がもっていた超越や聖なるものへの畏敬を、近代人は、もはや持つことができず、人間がその理性の行為者として、「世界の主」となったということであろうと思われます。
人間の理性に対する絶対的信頼が謳われ、「世界の主」として、あらゆる束縛から解放され、人間の可能性が無限に広がっていくように感じられたのです。
そこでは常に、理性的であることと合理的であることが同じ意味で用いられ、その合理性による無限の可能性の追求が行われたのです。
 しかし、有頂天にはいつでも警鐘が鳴らされます。理性による人間の可能性を無限に信じることに対して、人間の理性の限界が指摘されました。
I.カントは、人間が人間らしくあるということを、人間が持つ自然的本能の傾向に抵抗するところに見い出そうとして、理性的判断に基づく『倫理学』を打ち建てようとしましたが、人間の理性は、特にものごとを認識することにおいて、あらかじめ人間がその知覚能力の中に持つア・プリオリ(先験的)なものしか認識できないという理性的認識の構造を明白にしました。(*18)
アリストテレスも人間の理性に限界を感じていましたが、カントは認識論的にその限界を指摘したのです。
それは、「人間は感じることも知ることもできないものを知ることができない」という認識の基本構造に関わる限界でした。
カントは人間の能力について極めて謙遜です。
 しかし、この理性の限界内に人間が置かれているとは言え、その限界は人間が自分の経験を広げていくためには、まだまだ無限に広く、経験的世界に生きている人間にとって、理性こそが人間を人間たらしめていることに変わりはありません。
そして、経験上、理性は獲得された知識に基づいて発達していくことにも変わりがありません。
物事を知ることは理性的判断の枠を広げていくことであり、より正確な判断をすることができると言うことを意味していますので、近代以降、人々は知識の獲得へと増々まい進していったのです。
 かって、神々の気紛れで雨が降ると考えていた人間は、やがて、雨が自然現象の一つであることを知り、夕暮れに西の空を眺めて明日の天気を予想することができるようになり、さらに、大気圧の存在を知り、気圧を計り、その変化によって天気を予想し、今日では、宇宙衛星からの雲の動きの写真を見ることによって、はるかに正確な天気を判断できるようになってきました。
それは、自然に対する人間の理性的判断の枠がより正確に広がってきたことを意味しています。
地球上では、今のところ、人間だけがこのような判断をすることができ、そのことによって、人間は「生きる知恵」を獲得し、その可能性を拡大してきました。
理性は、まぎれもなく、人間に与えられた貴重な賜物であり、人間の特性そのものに他なりません。
 しかし、これまでの、特に近代以降の理性理解には大きな問題が残されているように思われます。
それは、理性を合理性と同一視して、合理的・科学的知識の獲得が理性的であることと混同され、そのことによって、人間の自然性を否定することが理性の働きであるかのように盲信され、人間の精神の根底にある豊かな感性や柔軟性が失われてきつつあることです。
本来、人間性を最も豊かにするはずであった理性が、逆に、人間性を損なうものになってきつつあるのです。
 人間が理性的存在であることを考える上で、この点は重要なことだと思われますので、次に、その理性の働きについて若干の考察を加えることにしましょう。

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