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人間が理性的存在であることは極めて古くから自覚されてきました。
恐らく、人間が道具や言語を使いはじめ、他の動植物との相違点を自覚し始めた頃から、「理性」はそれらの人間を特徴づける能力の総称、あるいは本質として認識されてきたのではないかと思われます。
しかし、「理性」が最も自覚的に認識されたのは、何と言っても、古代ギリシャ思想、特に「愛知(フィロ・ソフィア−哲学−)をその思想活動の根幹にしたソクラテスの系譜をもつプラトンやアリストテレスに代表される人々においてであると言えるでしょう。
彼らは、「理性」こそが人間を人間たらしめているものであると主張したのです。
アリストテレスは明確な表現で、人間はロゴス(logos−言葉・理性)をもつ動物であり、それによって、話し、考え、判断をし、それが人間の最も本質的な独自の特徴であり、人間のその他の性格はこれを基礎にした時に最も適切に理解される、と述べています。
「理性」を意味するギリシャ語の「ロゴス(logos)」という言葉は、非常に多義的な概念を持ち、また、ギリシャ思想全体のキーワードともいうべき言葉ですが、通常は、ロゴスは「言葉」そのものを意味するものとして使われます。
しかし、人間は「言葉」で考え、「言葉」によって認識し、概念化し、それを知識として獲得し、その精神活動を「言葉」によって行っていますので、「言葉」と「理性」は、現象的にも、その内実においても、分離しがたく密接に関連しています。
それ故、ギリシャの思想家たちは、「ロゴス」という言葉によって「理性」を指し示したのです。
それは、世界と人間についての知識に基づく人間の理想的精神活動のすべてを意味する言葉に他なりませんでした。
そして、彼らは、そのロゴスに普遍性を求めたのです。
ソクラテスは、もちろんプラトンによればですが、人間の身体が世界を構成しているものと同じ物質によって形成されているのと同じように、人間の理性も、普遍的な「世界理性」というものの一部によって形成され、人間の理性はこの世界理性を認識することによって正しく有効に働くと考えていました。
それは、コンピューターの端末機がその本体とアクセスすることによって最も効果的に働くのと同じことだと言い得るかもしれません。
ギリシャ人にとって、世界は無秩序に、個々バラバラに、偶発的に存在するのではなく、整然と、法則と秩序をもって存在していると考え、そのように秩序づけられた世界を「コスモス(宇宙・世界、kosmos)」と呼び、その秩序の根源を「世界理性」と呼んでいました。
ソクラテスは人間の最高の「知」は、その世界理性を知ることであると主張したのです。
そして、プラトンは、このソクラテスの普遍的世界理性をさらに深め、広げ、「イデア」という概念を用いて、人間の理性を含めた世界に存在するあらゆることがらの「本質・本性」を定めたのです。
従って、プラトンにとって、最高の理性は、最高のイデアである「善のイデア」を知ることであり、そこでは、当然、「知」は「徳」となります。
この「知」のために、プラトンはアカデメイア(学校)を設立し、教育に着手したのです。
彼がアカデメイアで最高のものとして教えたのは、物事の普遍性を認識し、その普遍性に理性的洞察を加えて検証することができる数学や天文学、自然学といった今日で言う自然科学と、あらゆることがらを正しく位置づけ、その向かうべき究極の方向である「善のイデア」の認識をおこなう哲学でした。
もし、人がこの「善のイデア」の認識を持つことがなかったり、誤ったりすれば、政治術、医術、生産術、さらに軍事術といった下位に属する諸技術が、本来その能力もないのに全体を支配しようとして社会全体を混乱に陥れると考えたのです。
このプラトンの指摘は、科学技術の時代といわれ、科学技術が支配的となった20世紀において、それ故に、人が環境破壊と核兵器の恐怖におびえ、生産と経済効率によって人生を計ることによって「生きることの豊かさ」を失ってしまっている現代人には良く実感できることであると言えるかも知れません。
ともあれ、プラトンにとって、最高の理性とは、普遍的絶対的真理である「善のイデア」を認識し、獲得することに他なりませんでした。
アリストテレスにおける「理性」理解も、彼がその師のプラトンの「イデア論」を批判的に継承したとはいえ、基本的にはプラトンの理解と変わりないように思われます。
アリストテレスにとっても、「理性」は人間に備えられた、最も際立った、しかも最も広い範囲に及ぶ能力であり、理性によってのみ人間の生は個人的・社会的完成に導かれる、と考えていました。
理性は、人間の中において、「不動の第一動因」として表現された超越的存在者(神)と類比(アナロジー)の関係にあるものであり、人間の中で最も神的なものだと信じられていました。
しかし、それと同時に、アリストテレスはその師プラトン以上に、はるかに鋭く、理性の限界、人間の知の限界も感じていたようです。
彼は、医者の息子らしく、現実に存在するものを現実的に見、人間の魂がその身体と密接に結びついており、理性の能力も、身体的感覚器官の助けで働くことによって、存在しているものの「形相」を認識させるのであり、決して単独で、身体から分離された状態で存在しているのではない、と認識していました。
従って、理性は、人間の中で最も神的なものではあるが、身体的・感覚的限界をもつものであると考えられているのです。
それ故、人間がこの限界を、想像力と豊かな感性、そして、可能な限りの広くて深い知識によって克服する姿の中に、理性的人間の完成を見ていたのです。
アリストテレスの膨大な量に及ぶ多方面に渡る学問研究は、その理性的人間の探究の現われであるように思われるのです。
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