プラグマティズム(実用主義)の代表的提唱者の一人であるウィリアム・ジェームスは、少年の頃は、ほとんど正規の教育を受けたことがありませんでした。
3度ヨーロッパに滞在し、各地の私学舎や家庭教師に学んだだけで、18歳の頃には画家を志し、19歳でそれを放棄して、ハーバード・ローレンス・サイエンティフィック・スクールに入りました。
しかし、そこでも初めは化学を学びましたが、1年で生物学に転じ、やがて、将来を考えて医学を修めましたが、生理学や実験心理学、また哲学への関心が起こり、彼の学問的経歴は変転していきます。
彼は心理学者としても、1890年に完成した『心理学原理』で大きな功績を納めていますが、彼のこうした自由なあり方が、一貫した観念的論理性よりも実用を重視するプラグマティズムを生みだしていったとも言えるかもしれません。
プラグマティズムは、ギリシャ語で行為、実行、実験、活動を表すプラグマタという言葉にイズム(主義)を加えた言葉で、明治38 年(1905年)以降、日本では「実用主義」と訳されてきました。
プラグマティズムの思想的背景は、おそらく、カントの「実践理性の優位」にまで遡ることができるかもしれませんが、簡単に言えば、「論より証拠」で、あらゆる論理の正当性は、その実践や実用によって図られるべきだ、という実践重視の価値観に基づく姿勢と言えるのではないかと思います。
プラグマティズムを唱えたJ.デューイは、「概念道具説」を語り、真理、概念、理論などの精神内容は、実際の経験世界における活動の道具として用いられ、そこで取捨選択されていく、と考えました。
要するに、プラグマティズムは、あらゆる事柄を実験可能な、あるいは経験可能な世界での実用性によって位置づけ、実効的根拠のあるものだけを重視しようというものです。
ですから、プラグマティズムの世界観は、当然、実際に経験できる世界に限定されます。経験外の世界は、あるかもしれないが、不可知であるので、それを考えることは無用なことになります。
現代世界を価値論で図ろうとする傾向はここから生まれてきました。実用的であるかないか、価値があるかないかで世界を判断し、個人にとって意味のある世界が世界となります。
それ故、プラグマティズムの世界観は個人主義的世界観です。それは世界を全体的な外側からではなく、人間の経験の側から見、これを実用に即して構築しようとします。そして、実証や実験、実用を基に科学的・合理的に判断しようとします。
こうしたプラグマティズムの姿勢は、今日では、かなり幅広く浸透し、現世的で合理的、相対主義的な傾向を生みだしています。そして、「利益」という事柄を中心にした「一時的な関係」が支配する現代資本主義国家の実用的な論理になっているように思われます。
しかし、一方では、個人の経験を中心にした世界観は自己の経験以外のことを認めようとしないために、個々の世界観において閉鎖的となることは免れえず、ともすれば「独りよがりの世界観」を生み出す危険性もあります。
プラグマティズムに対する批判は、現代では多様に行われていますが、それらが有効な批判であるかどうかは、難しいところです。なぜなら、人間の経験には限界があるとは言え、人はその経験においてしか世界を見ることができないからです。
特に、客観的な実証を重視する科学的思考にとって、抽象的な論理展開や経験外の世界を措定することは、あまり意味のないこととなります。
ともあれ、こうして現世的で経験可能な現象の中での思考によって、世界観は、この項の最初に述べましたように、常に、課題として立ち現れてくるだけのものになりました。
今日、私たちが認めることができるものがあるとすれば、宇宙(世界)は、その未経験領域も含めて、まぎれもなく実在する、ということだけなのかもしれません。
そして、「私にとって世界とは何か」と問うことこそが世界を開く、ということかもしれません。それは常に、「私が生きる」ということに重要な問いとして立ち現れるからです。
だから、「あなたにとって、世界とは何か。」これがこの章のまとめの言葉です。
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☆「世界観」を取り上げる第1章は、このメルマガでは、ほぼ1年かかってしまいました。もちろん「世界観」の問題は、これで終わるわけではありません。
☆現代では、すべての問題は、相互に密接に関連し、リンクしているからです。
☆しかし、ここでは、次の課題である「人間とは何か」の問題に進みたいと思っています。人間こそがすべての問題の要だからです。
☆ですから、当初の計画に従って、次回から、第2章「人間」で、その後には倫理の問題を取り扱いたいと思っています。この遠大な散歩道におつきあい下さることを期待しています。
☆ご意見やご感想をいただければ幸いです。いつも、僕なりのお答えしかでき ませんが、できる限り、なんでもお答えしたいと思っています。