<その13 教育環境の整備−5−「生徒論(1)」>
教育論の多くは、主に「教える側」によって論じられ、「教えられる側」については、せいぜい、「学びの心得」のようなものが語られるに過ぎませんでした。その「心得」も、「教える側」によって語られますので、「教える側」に都合のいいような学びの倫理が語られることも多々ありました。学校で作られるシラバス(講義概要)にも、そうした視点で、学ぶための準備と心得が記されたりします。
しかし、これまで述べてきましたように、教育は、どこまでも双方向の対話によってしか成り立たない人間の業ですので、「教える側」には教師論という教えの倫理が考えられるように、学ぶ側には、学ぶ側の倫理が必要です。
第一に、学ぶ者は、「教えられる」という受動的な位置では、何も学ぶことができないということです。「教えられる」のではなく、「学ぶ」という主体的な意志が必要なのです。教育は主体性によってしか成立しません。
このことは、例えば、『論語』や『新約聖書』、あるいは仏教の経典などを見るとよくわかるのですが、そこでは、弟子が問い、師が答えるという問答によって教えが深化されていきます。問わない者には答えは見出せないし、師は問いそのものの中に答えがあることを指し示します。学ぶ者の主体性に従って教えが展開していくのです。教える者は、学ぶ者が問うことができるように問題を提示する役割を負っています。
この点では、日本の学校教育の多くは失敗しているように思えてなりません。学校では、政府によって教育要綱が定められ、教師は、最低限「教えなければならない項目」が規定されてきました。そこでは、教育は自然に「教えられ」、「与えられるもの」になっていきがちになりますので、生徒は、自分が主体的に「問う者」であることを喪失していきます。一方的な押しつけ教育がなされ、学ぶ者も教える者もうんざりする教室での現象が起こっているのです。学ぶ者の主体性の回復が急がれるところです。
問う者は問うことの必然性によって問いを発するのですから、学ぶ者は、問うことの必然性を自覚する必要があります。そして、その必然性は、問う者の状況や実存から生じるのですから、問う者は自分の実存状況を自覚する必要があるのです。つまり、教育は実存状況の自覚から生まれるのです。そして、この実存状況の自覚が教育の目的、つまり、なんのために学ぶのか、ということを規定するのです。
実存状況の自覚というのは、究極的には、絶対他者との出会いや自己の限界の認識によって生まれてくるのですが、簡単に言えば、「自分ができないことを知る」あるいは「自分が知らないということを知る」ことです。かつて、ソクラテスが真理の探究をそのように位置づけたとおりです。
従って、学ぶ者にとって重要なことは、「自分が知らない」ということや「自分ができない」ということの謙遜な自己認識に他なりません。「知らない」ということや「できない」ということを知っているということは、極めて重要なことなのです。
問いは、この実存状況の認識の他に、純粋な知識の「好奇心」からも生まれてきます。古代から現代まで積み重ねられた諸知識は、いうまでもなく、好奇心の賜物に他なりません。「なぜ?」、「なんだろう?」という好奇心は、知的成長の始まりでもあります。
子どもの成長過程では、必ず、こうした「なぜ?」の時期がありますが、その時期にきちんと対応することの重要性が指摘されていますが、それはまた、学ぶ者にとって好奇心を持つことがいかに重要であるかを示すものです。
こうした実存状況の認識や好奇心は、個人の感性によってきり結ばれていきます。I.カント以降、人間の感性は知性よりも下位に考えられがちになりました(これはカント哲学の誤解ではありましたが)。しかし、感性の重要性は改めて認識される必要があるように思われます。
幼児期の教育は、特に、この感性を豊かに養うことに、もっと注意されて良いのではないでしょうか。物事を感じる心や精神なしには、知識はただの机上のものとなり、生きた知識とはならないのです。
生徒論の第二は、自己の学びを深化させ、拡大していくということです。次回は、そのことを少し考えて見ましょう。
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☆ここ数年、毎年夏になると、扁桃腺が晴れて発熱するということをくり返していましたが、今年も、のどの痛みから発熱してしまいました。余り高くは上がらないのですが、微熱でも、蒸し暑いので、ちょっとつらいですね。
☆最近、昔のことを思い出す機会がたくさんあったのですが、真に紆余曲折で、上京した折りに浅草まで足を伸ばしてきました。もんじゃ焼きを食べ、雷おこしを買ってきました。
☆学ぶ者の主体性ということは、よく言われることですが、その主体性がどこから生まれてくるのかは、哲学的な課題です。通常、社会的な必然性に従って(〜の資格を取るといったことも含めて)教育を考えがちですが、主体性は必然性とはまた別のものです。最近、教育TVの「高校講座数学」というのを面白く見ているのですが、数学は主体性そのものなしには学べないですね。
☆この夏は、少し時間があきそうなので実家にでも帰ろうかな、と思っています。良い夏をお迎えください。
ではまた。
第一章
宇宙(世界)と人間
第二章
人間とその位置づけ
第三章
人間と社会
第四章
人間と教育
第五章
知識と言語
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