第4章 人間と教育

1.教育の初期的段階

 以前にも少し触れたことですが、生物的機能ということから言えば、人間はその生存のために必要な機能を本質的に備えて誕生してくるのではなく、いわば「機能的に欠陥を持った生物」として存在します。

それだけに、この欠陥を補うために、脳を巨大に発達させ、直立歩行や言語、思考能力や認識力、環境への柔軟な適応性を発達させてきました。人間を意味するホモ・サピエンスという言葉は、「大地を耕すもの」という意味を持って おり、この大地という言葉を、広く「自分の環境(世界)と自分自身」と言い換えて、「人間は自分の環境(世界)と自分自身を自分で耕さなければならないもの」と言っても過言ではないだろうと思います。

旧約聖書のアダムが「土の塵」で作られた、というのは極めて象徴的な表現ですが、人間は「耕す(開発させる)もの」として存在しています。

そして、通常、この「耕す」という行為を、人間は発達した脳の働きの重要な機能である「感じ、考える」ということで行ってきました。そしてさらに、この「感じ、考えたこと」を他の諸器官に伝えるために何らかのサインを送る機能が発達し、そのサインが象徴となり、言語機能へと発達していったのです。

 この言語機能が、他の人間と共通のものとなるように、「言語」として整えられ、やがて、共通の言語としての「言葉」が生まれてきたのです。

 ものごとを考える時、私たちは、通常、言語を用いて、言葉で考えます。しかも、原初的な言語ではなく、共通の「言葉」で考えますが、この「言葉」は、それが他の人間との共通性を正しくもつためには学習・習得が必要とされます。

 従って、人間は、生きるために「学習」を必要とする生物なのです。そして、この学習を整えたものが教育ですので、「人間とは教育されたもの」であり、人間と教育は不可分の関係にあるのです。

 もちろん、ここで言う「学習」や「教育」は、ある特定の学習や体系化された教育をいうのではありません。

 想像に難くないのですが、原初的な状態での学習というのは、恐らく、単純な生存技術の学習だったのではないかと思います。

 子どもたちが学習したことの大部分は、両親や他の家族、あるいは部族や集団の中での触れ合いによって、自然に習得していったものでしょう。魚を釣ったり、狩りをしたり、あるいは種を蒔いたりして自分の食物を獲得し、敵と戦い、自分の本能的な欲求に対処することを学んだのだろうと思います。それは生存のための学習でした。

 しかし、部族や集団の習慣や伝統が発達するにつれ、自然の触れ合いの中で生存技術を習得するだけでは不十分になりました。子どもたちは、それらの部族や集団の一員となるために、明確に「教えてもらう」必要があったのです。

経験を積んだ老人たちが、行事や事あるごとに集団の伝統や習慣、それまで獲得された知識を教え、子どもたちが集団の一員になるように学習することが行われました。

従って、集団の正式な一員になる成人の儀式は、どの部族でも極めて重要なことであり、多くの場合、試練(テスト)が課せられ、それに耐えられたものにだけ集団の最も重要な秘密が告げられて、共同体の完全な一員として認められるような儀式が行われています。

その試練(テスト)に耐えられるように導く学習(教育)は、そこで、個人の生存技術の習得であると同時に、集団(共同体)の重要な構成要素として位置づけられたのです。

そして、集団や共同体内での生活が組織化されるに従って、集団内のルールが複雑になるにつれ、ルールや習慣を熟知した特定の人が、もっぱら若者の教育に当たるようになり、教育の専門性が生まれてきました。「教師」という社会内での役割が誕生してきたのです。

教育はこの教師によってどこでも行われてきましたが、やがて特定の場所が設定され、「学校」が生まれてきたのです。

 こうした原初的形態を見てみますと、教育の初期的段階は、あくまでも生存技術の習得と集団や共同体への適合を目的として行われる、ということが見えてきます。教師は、どこまでも社会内での社会的役割を果たす者に過ぎません。

 また、集団や共同体の一員として認められることが成人儀式をとおして行われたように、集団の伝統や習慣、知識、生活様式は宗教儀式と密接に結びついていましたので、神々への礼拝と習慣や伝統の保持は同じように考えられ、教育の場は、主として、宗教儀礼が行われる場所であり、宗教的権威をもつ者が教師の役割を果たすのが普通でした。従って、教師の権威は宗教的権威によって保持されていたのです。

 ユダヤ教を例に出すまでもなく、人々の宗教的生活の指導者が若者の教育に対して支配的な力を持つ者でした。そして、その教育の内容も、多かれ少なかれ宗教的性格を帯びていたのです。

 ここまで見てきますと、こうした教育の姿は、今でもあまり変わらないのですが、たとえば、就職率の高さを自慢する学校や「役に立つ知識と技術」だけを教えますという学校、あるいは、卒業式で国旗の掲揚や国歌を強制的に歌わせようとする学校、というのは、自分の権威を誇示したがる教育者というものは、シニカルな言い方をすれば、教育の原初的段階にあるものである、と言えるのかもしれませんね。

(続)

- A Promenade of Western Thought - K.Wiseman 著

Note

☆私たちはなぜ「学校」を作り、その「学校」にお金を払っているのか。学校では何が教えられ、学ばれるのか。学校で知識と技術を教えることによってどんな人間になることを教えるのか。「社会に役に立つ人間」ということで全体主義的社会の一員となることを目的とするのか、それとも、人間の自由や真理なのか。

☆今回取り上げた事柄には、そうした問いかけが背後にあります。教育が何のために行われるのかという教育の目的は、もっと単純化され、明瞭にされるべきだからです。

☆それにしても、教育の目的が曖昧になったり、学習の目的がないままに学生生活をモラトリアムのために行うことが多くなりました。予備校や専門学校は教育の目的が精鋭化されていますが、教育の目的をそこだけに限定するのはあまりにも幼すぎる気もいたします。

☆しかし、学校がどうであれ、何を学び、何を教えるかという教育の内実に、すべてはかかっているのですが、社会全体が内実を失った状態であれば、教育の内実も失われていくのは当然かも知れません。教師の質も確実に落ちているのではないかという老婆心をもっています。

☆しかし、意識的に取り組まれている素晴らしい先生方もたくさんおられます。できるなら、そういう先生方と出会いたいですね。学校は先生との出会いの場でもありますから。

☆寒いですね。インフルエンザのきざしもあります。風邪など引かないように、暖かくしてお過ごし下さい。

Index

第一章
宇宙(世界)と人間

第二章
人間とその位置づけ

第三章
人間と社会

第四章
人間と教育
第五章
知識と言語

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