5.家族の哲学的理解
家族は、その生物学的理解に従えば、生物的な生存の保持のための集団です。しかし、家族をそのように理解するだけでは、それは家族の一義的な理解に過ぎません。
それだけですと、たとえば、家族にとって生存のためには何の役割も果たさず、絶対的の保護を必要とする子どもの存在は、ただ未来のためだけの存在となり、「子どもの今」が失われてしまう危険があるのです。家族は、人間の存在という深い観点から理解される必要があるのです。
人間は本質的に自己以外の他のものとの関係性において存在しています。人間は、何か他のものとの関係なしには存在し得ません。その関係がどんなに煩わしいものであっても、人間は、「あなたがいるから私がいる」という中でしか生きることができない生物です。
そして、人間存在が本質的に関係存在であるということは、人間の行動様式を理解する上で極めて重要です。この本質から、人間は、潜在的に自分が生きていることを実感できるような「我ー汝」の人格関係を形成しようとしますし、またそれが失われた場合には、その回復を試みます。
古代ギリシャの哲学者プラトンは、「人間は自分の片割れを求める存在である」と言いましたが、家族の形成は、そうした人間が生きる上での潜在的存在論的欲求に依拠しています。
プラトン流に言えば、単独の人間は、不完全な半分にされた人間であり、その片割れを求めて生き、その片割れとしての他者を必要とするのです。
20世紀の哲学者マルチン・ブーバーは、人間が本質的に持つ関係性を、「我(わたし)−汝(あなた)」と「我(わたし)−それ」に分類し、互いに相手の人格を認め、お互いの呼びかけに答えていくような人格関係と、相手を「物」として取り扱う非人格関係も姿を明瞭にして、人間は人格関係においてこそ、その実存感と生きる喜びを感じることができる、と指摘しました。
恋愛において、生き生きとした喜びを感じるのは、恋愛が互いに相手の呼びかけに答える人格関係の最たるものだからです。ところが、「あなた」がいつのまにか「それ」にすり替わり、相手を「それ」として取り扱うことによって、自分自身も「わたし」から「それ」に変わってしまいます。そこに、現代の非人間的な悲劇があります。
「家族」は、本来的には、何よりも、この人格関係の集団に他なりません。ところが、家族の構成員をいつのまにか「もの」やお給料の額や成績といった「数字」に置き換えてしまうことによって、家族の悲劇を発生させてしまうのです。
家族の一人一人を「あなた」として理解し、位置づけることは、家族を考える上で大切なことです。
このように、人間存在の関係性を哲学的に基礎づけ、心理学的に分析することによって、家族に新しい存在論的光を投げかけることが可能となります。正しい人間論に基礎づけられた心理学は人間の内的衝動を分析し、そこから新しい関係性を構築しようとすることによって、家族の諸問題への処方箋の役割を果たしうるからです。
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☆「家族」を生物学的に理解すれば、家族は生存のための共同体となり、哲学的に理解すれば、存在の本質から出てくる人格関係の集団、ということになるだろうと思います。
☆もちろん、ここで言う「生物学的」とか「哲学的」とかいうのは、ある限定された意味で使っている概念ですが、ここでそれを述べれば論が複雑になってしまいますので、割愛しました。
☆「人格関係」という概念も、これを追求すれば、本当に難しいものになりますね。ただ、これらの概念を直感的に理解してくださることを、僕は期待しています。
☆「わたし」と「あなた」の間でなされるコミュニケーションを「対話」といいますが、家族の中で対話がないということの根底には、人格関係が失われているということが横たわっています。「会話」があっても「対話」がないということもありますね。