第2章 人間とその位置づけ

8.近代の人間観(1)

 ニーチェは人間とは「克服されるものである」と考え、人間は自己を克服し、世界(自然)を克服する「力」を持つ者(この力を持つ者を「超人」と呼びましたが)であると考えました。

 概ね、これがおそらく20世紀の一般的な人間観になったと言っても過言ではないかも知れません。経済力を身につけ、知識力を身につけ、自己を開拓し、発達させていく者、それが20世紀の人間の理想とさえなりました。

まさに「力への意志で生きる者」に他なりません。

 20世紀を代表する哲学者の一人であるM.ハイデッガーは、このニーチェが示したニヒリズムの克服の道を受けつつも、「力への意志を持つ人間自身」が、それが世界を克服しようとする時においても、究極的には、常に、世界の中に存在しているに過ぎないことを認識しました。

 人間の実存(Existenz-existence)は世界を脱する(Ex-)者ですが、同時に世界の中に存在する者(世界−内−存在)です。

ハイデッガーはこのことを表すために、今生きている人間を現存在(Da-sein)と呼びました。文字通り、世界の中で、今ここに(Da)ある存在という意味です。

 簡単に言えば、人間は環境の生物であり状況の産物であることが再び認識されたのです。人間を世界の中にもう一度放り投げて、その中での人間を再認識しようとしたと言えるかも知れません。

 西洋思想は、長い間、たとえ中世の神中心思想であっても、人間を中心に置き、人間の発達と自己形成を考え、世界や人間を対象として、これを克服する道を探ってきました。その意味では、いつの場合でも、人間は特殊な存在として考えられてきたのです。

 しかし、20世紀になって、人間をもう一度世界の中で、つまり世界の一部に過ぎないものとして認識しようということが提唱されたのです。

メルロ・ポンティーは人間の自然の姿としての「身体性」から人間を見直そうとしましたし、フッサールは「現象」の中での人間を考えようとしました。構造主義は、文字通り、社会やいろいろなものの構造の中での人間の姿を分析するものです。

ハイデッガーが人間を「世界−内−存在」としたことは、とりわけ新しい思想 とは言えませんが、こうした一連の現代の人間観の集約ではあるだろうと思い ます。

ハイデッガー個人は、ナチズムに加担し、それを支持した人ですが、「世界−内−存在」ということから、「人間は社会や環境の生物にすぎない」という認識は、今日広く浸透しています。

戦後マルクス主義を引き合いに出すまでもなく、政治革命や社会運動に携わる人々、環境問題でのある人々の主張などの根底にはこうした人間理解が横たわっているように思えるのです。

その意味では、マルクス主義もファシズムも、思想的には同根だと僕は思いますし、どちらも自分の思想としては否定的に思っていますが、人間を世界の一部として認識するということは重要なことだろうと思います。

現代のあまりにも詳細に分割されてしまった哲学に、僕自身はあまり意義を感じることができないでいますが、現代では、おそらく、その根底には2つの人間観が混在しているように思われるのです。

ひとつは、「常に克服すべきもの」としての人間です。心理学の「発達」や倫理学の「形成」、あるいは「教育」、自然科学の営み、という視点での人間観がこれに当たると言えるでしょう。

もう一つは、人間は世界の一部であり、世界の中での存在であるという認識です。この点では、僕はハイデッガーの言う「現存在(Dasein)」という人間理解には妥当性があると思っています。

この2つの人間観は、丁度、プラトンとアリストテレスのイデアとリアリティのように、絶えず、一方が強調されれば他方が批判的に働くような関係にあるのかも知れません。

新しい人間観を模索する上では、これは重要なことではないでしょうか。

次回は、現代社会の大きな基準になってしまった功利主義の人間観について、少し考えてみたいと思います。

- A Promenade of Western Thought - K.Wiseman 著

Note

☆ニーチェとハイデッガーというのは、まことに皮肉な取り合わせかも知れないと思います。ニーチェの思想は、誤解されてナチズムに利用されましたが、ニーチェ自身は、もし彼がその時代に生きていたら、ナチズムを毛嫌いしたに違いないのです。一方、ハイデッガーの方は、一見するとナチズムとは無縁の思想のようにも見えますが、実際は、ナチを支持し、ヒットラーによって大学の学長になった人間です。

☆戦後、ハイデッガーはそのことについては沈黙しましたが、「世界−内−存在」という思想の限界かも知れないと思うこともあります。人間は環境や状況によって変わりますが、思想性や精神性をどこで持つかは生き方の問題として受け取る必要があるかも知れません。

☆ここでは、もちろん、ハイデッガーの思想のすべてを述べているわけでもありませんし、詳細な検討をしているのでもありません。むしろ、おおまかすぎるかもしれませんが、人間観の方向性が示されればと願っています。

Index

第一章
宇宙(世界)と人間

第二章
人間とその位置づけ

第三章
人間と社会

第四章
人間と教育

第五章
知識と言語

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